今回一番好きな写真、普通の女の子がくたっとした花を一本だけ持って並んでいる

※今回は写真が多いので、タテに長くなることをお許し願いたい。

金曜朝、突然李克強前首相の逝去が発表された。何でも上海にある高級ホテルで水泳中に心不全を起こし、病院に担ぎ込まれたが亡くなった、とのこと。まだ68歳と心臓発作で助からないほどの歳でもなく、また元国家級指導者だった彼には身辺警護とともに常に医師団が付いているのだから、そんな簡単に死ぬはずはない、という噂も駆け巡っている。

まるで見てきたかのような『死の瞬間』の描写をいくつか読んだが、証拠と言えるのはせいぜい最初に運ばれたのが心臓ではなく中国医学専門の病院だったということくらいで、陰謀を語るにせよもう少しリアリティは持たせたほうがいいのでは、という程度のものだ。(変な物言いだが)中国はロシアと違ってそこまで気軽に暗殺をしないし、現役時代に激務だったエリート会社員が引退した瞬間にボケたりぽっくり逝ったりということはめずらしくもなく、個人的にはそんなところではないかと思っている。まあ、いつの日か党が崩壊して内部記録が流出でもしない限り真相が分かるはずもなく、この件を真剣に考えることはインクのシミと蝶の差について考えることと同じ程度の意味しかない。

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李前首相は上海の隣安徽省の出身で、少年時代に省都の合肥に住んでいたことがある。だから死去が発表されて以来多くの人がこの旧居に花を手向けに来ているという話自体は、当初そこまで興味を引くものでもなかった。「人民に慕われた総理、死してなお弔問の列は日夜途切れず」まあ、社会主義国の国営新聞にありそうな見出しではないか。

ただ昨晩、つまり2日目夜になってもその列は途切れず、うずたかく積まれた花束が細い路地をはみ出して表通りにまで及んだ、という話を聞いて気が変わった。中国では今まで何回か、こうした追悼が反政府的な意味を持ち始めたことがある。いくら彼が最終的に不遇だったからといって、別にそこまでの騒ぎになるとは思っていなかったが、まあ動けるなら行ってみるのもいいだろう。なんであれ、滅多に見れないものであることは確かなのだから。

红星路80号の周辺では交通管制がひかれるも、警備誘導がしっかりしていたせいで思ったより混乱はなし。

結局日付が変わる頃出先からの予定を無理やり曲げて、早朝便で向かうことにした。訳あってかなり離れた田舎にいたのだが、朝夕それでも一便ずつ直行便があったのは助かった。コロナ前まで完全復旧とは言わないが、中国の国内線の便数の多さはこんな時助かる。むしろ便数は完全に戻っていないだけに、ドミノ倒しでの遅延が減ってよかったとさえ思う(料金がその犠牲になっている訳だが)。

空港から市内も近く、またその場所、紅星路80号は高級ショッピングモールが林立する様なエリア(の裏路地)でもある。昨日までの報道を見るとどうやら現地はかなりの警備状況でもあり、時間の余裕もあったので、まずは下見を兼ねて軽く周囲を散歩して状況を確認することにした。警備側の温度感によってはスマホを出すことも控えた方がいいかも、などと思ったのだが、行ってみると現場には数え切れないほどの私服警官と地元ボランティアがいたが、そこまでピリピリした雰囲気ではなかった。

手向ける花はどこから来たのかと思ったら雨の日の地下鉄出口のような勢いで花売りがそこら中で商売をしている。いまの中国では特に大通りでこういうことをやっていると城管という暴力的な街の清掃担当が来て排除される事が多いが、この事態においてはさすがに見逃されているのだろう。

大通り沿いで堂々と花を売る人たち。普段なら速攻撤去だが…ちなみに1束10元(約200円)。

驚いたのは、訪れるひとの年齢層が若者から子供連れ、老人までかなり広いことだ。また花束には多く手書きのメッセージが添えられている。地味なイメージが強かった人だけに、意外と人気があったんだなというのが偽らざる実感。ただまあ安徽省は貴州などと同様貧しい上に目立たないイメージが強く、地元から国家のトップ層に入った彼は当たり前ながら地元の誉れなのだろう。

よく李克強を「習近平との政治闘争に破れた」「スピーチでよくつっかえてるヒョロガリ」「リコノミクスって何でしたっけ」などと否定する人がいる。しかしそれでも彼は14億人のNo2にまで上がった男なのだ。更なる怪物がいたことは確かだろうが、それでもまるで失敗者のように語られるべきなのだろうか?大いに疑問だ。やっぱりあんまり華があるタイプではなかったし、なんかいつも顔色悪そうだし、トップと明らかに芸風が合わなそうできっと胃が痛い毎日だったんだろうなあ、と思いはするが、高度経済成長により周囲の国にドヤ顔して無理なことを言い募ってもある程度いうことを聴いてくれる今の中国の勢いの少なくとも一部には、彼の貢献があったのだから。

「注文の品」を届けていると思われるデリバリースタッフ

現場にいけなかった人の中にはデリバリーを頼んだ人も多かったようで、それを持ち込む騎士たちも多かった。人に渡すのではなく「自分のかわりに手向けてくれ」と言われ、それを繰り返す彼らはどんな気分だったのか、少し声をかけてみたい気もしたが。

「李克強総理、その名は永遠に不滅」
中には小学生が書いたものも

軽く見て回り、食事をして時間を潰したのちに念のため服を変えて再度現場に向かうと、さきほどなかった場所まで列が伸びていた。回り込むと、細い路地沿いに花束が積み上がっているが、通れる道がある。入っていくとまだ多くの花束が山をなしていた。

反中共的な友人と、なんで今回はこんなに人が集まっていて、彼らは何を思っているんだろう、とちょっとした議論になった。友人は人々は李克強に長い間歯を食いしばって頑張ったのに結局色々なことがうまく行かない自分たちの口惜しさを投影していると言う。経済担当などと言われながら実権を奪われて軽んじられ、それでも何かを果たそうとしてうまく行かず、最後は引退させられた上に消された悲劇の人物。習近平が大嫌いな友人からすれば、ある意味で当然の発想かもしれない。

僕はもう少し単純で、経済を発展させた功労者である首相への労いと哀悼であると思っている。よく使うたとえだが、多くの人にとって中国の指導者は天気と同じだ。概念的な存在と言ってもいいかもしれない。コントロールできるものではなく、何かを言い出したらなるべく自分の被害を最小限、利得を最大限にするように立ち回るのが自分たちの仕事であって、雨乞いくらいはするかもしれないが、日差しが悪かったから太陽を裁判にかけようという話にはならない。

その政治闘争の物語もまた、ギリシャ神話における(別に万能でもない)神々の争いごと程度の距離で見られている。習と李の権力争いなど人々にとってどうでもよく、李の味わった苦難は物語としては知っているかもしれないが、同情や自己同一化するような性質のものではない、ということだ。そうとらえるならば、人々は別に反習などと考えているわけではなく、地元出身の英雄である李を悼み、そしてひょっとしたら死につつある中国経済の死をも悼んでいる、といってもいいのかもしれない。もちろん、どちらが正しいかなんて、わからないが。

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今日の合肥は最高気温26度と、秋のとば口にしては暑い日だった。道にはみ出した献花はうずたかく積み上がり、周囲はかなり濃い花の匂いが流れる。おそらく数日でこの匂いは腐臭に変わり、花束も人もこの狭い路地から姿を消すだろう。「不遇」の首相は、このまま忘れられてしまうのだろうか。白紙革命は去年の11月末。今年の一周年に何があるかはわからないが、胡耀邦への追悼が民主化の声を押し広げた天安門事件の再来には、おそらくならないのだろう。