久しぶりに読む意味と価値がある記事に出会った。

今朝9時16分に公開されたこの記事を紹介していた友人は「この記事が削除されないことを願っている」と(おそらくそうなることを予想した上で)コメントを添えて10時53分に投稿し、それから20分ほどで僕が気づき、読み終わってため息をついてトイレに行って顔を洗って帰ってきた11時25分頃にはシェアした友達から「開けない」と連絡が来て消されたのを知った。そんなこともあるかなと思いコピーを取っておいてよかったし、それが当たったのも自分が手慣れているのも悲しい。

コロナ対策明けなのかそれよりもっと前からなのかその境界ははっきりしないが、数年前と比べて「有名アカウントが封殺」「拡散された記事が削除」といったこと自体、めっきり聞かなくなった。もう多分、誰もが特定の領域に触れること自体(重要なのはその程度ではなく、触れるという行為)がわかってしまい、多くの人が諦めてしまったということなのかな、と理解している。この辺境通信では何回か封殺された記事を紹介しているが、最近まったくそういったものを取り上げていないのは僕が選んでいないのではなく、単純にまったく耳に入らないからなのだ。

中国の高度成長を支えた農民工と呼ばれる出稼ぎ労働者たちの第一世代の現在を描いたこの記事はあまりに残酷で、救いがない。そして断絶した社会では、往々にして救いがない事自体周囲に知られず、当事者は誰にも知られぬまま静かに絶望し死んでいく。そんな中多大な労力を払ってこの記事の元になる書籍を記した邱鳳賢(文中で触れられているが、本人も出稼ぎ一家に生まれ、家族で唯一大学で学び、学者になっている)と、それを取り上げたこの公众号に敬意を表したい。そして特定個人の責任でもない、社会の矛盾に関する真摯な研究の結果ですら簡単に踏みにじるこの社会システムとそれに目を向けない人々には、それが毎度の事であるとはいえ本当にうんざりする。

文中で第一世代の老人たちの窮状を見た筆者は「社会における弱者の共通の宿命なのかもしれない」と悟る。そう、中国は弱いものには(その弱さの原因が何であろうと)徹底的に冷たく、厳しい場所だ。昔の小説に「奪う側に回りたかった」と言い残したキャラクターがいたが、中国で成功するには奪い尽くして蹴落とすか、そうして成り上がった親の家庭に生まれるかの二択しかないのではないか、と常々思う。

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ちなみに農民工の現状については、ネット上でこの邱准教授がいくつかのインタビューに答えるなどして記事化されている。もし興味を持った方はこちらも読んでみるといいかもしれない(他にも色々あるが)。

专访“第一代农民工”研究学者仇凤仙:回村养老几乎是他们唯一的路,需再造生计机会

对话学者仇凤仙:“第一代农民工”的养老生计在乡村

また上記インタビュー内で触れられている国家統計局による農民工に関する統計はこちら

 

こうして30年間、働き続ける

2023-07-05 09:16(正面连接、ただし2時間ほどで削除。原文はこちらに再アップした

個人の奮闘は役に立つのか? 2,500件のアンケートを送り、200人にインタビューした調査の結論は、個人の努力は実際に彼らの状況を変えることはできず、主に社会的要因が彼らの運命を決定することを示している。

私の住む小区の清掃員である趙さんは北京で23年間働いているが、60歳で退職することができなかった。 彼の将来の年金は月に100元(約2000円)強しかないため、彼は70歳まで働くつもりだ。彼の世代は我が国の「農民工第一世代」でもあり、 1970 年代以前に生まれ、80 年代から 90 年代に都市で働き始め、多くは 30 年以上働いている。 しかし、この8,600万人あまりの晩年の境遇は趙さんと似たりよったりだ。

趙さんは河南省駐馬店出身で、2000年、32歳で北京に来た。管理人や緑化などを経て、07年に私の住む小区で警備員の仕事を始めた。それからさらに10年が経って49歳になったけれど結婚できるほどの貯金もなく、冬は暖房なし、夏は湿気とカビにまみれる10平方メートルの地下室で一人暮らしをしている。私がこんなことを知っているのは、当時新聞社のインターンとして農民工に関する原稿を掲載する必要があり、趙さんが最も身近な農民工だったからだ。

「7年間休みなしだ。1日10時間働いて、月収は2,700元。これは私だけの状況ではなく誰もが同じ」 話を聞き終わり立ち去る前に、彼は「この言葉を絶対に削らないでくれ」と彼は私に念を押した。

しかしこの部分だけでなく、趙さんに言及したすべての部分が削除されてしまった。原因は「ネガティブだから」。趙さんは我々が持つ農民工の美しい生活風景のイメージに合致しなかったのだ。しかしこの人たちが実際におかれた状況は、わたしたちが想像するより更にずっとひどいものだった。

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安徽師範大学准教授の邱鳳賢はある研究を行った。 彼女は、農民工の第一世代が老後どうやって生き延びたのか疑問に思い、2,500通のアンケートを送り、200人にインタビューした。 その報告書の行間には無数の趙さんの姿が垣間見える。

私達が「定年延長」について議論するとき60歳になってもリタイアできないのではないかという不安が話題になるのに対して、彼らの60.7%の人は「できなくなるまでやる」しか選択肢がない。

都市部の高齢者が平均月額3000元の年金を受給できるのに、彼らの年金はわずか100元か200元に過ぎない。

彼らはみな15 年以上働いているのに、半数以上は晩年の預金が5 万元未満しかない。

彼らが稼いだお金はすべて、子供たちが学校に通うために家に送金されているのに、次世代の20%未満しかその階層から抜け出せていない。

私たちが見落としがちなのが、彼らは労働者でありながら同時に高齢者でもあるということだ。 彼らは退職すべき年齢になっても懸命に働き続けなければならないが、その結果、家族の幸福や医療の保障といった老後の約束も、労働者にふさわしい報酬や尊厳も得られない。

1993年から2005年にかけて、全国の都市労働者の月給は1,260元増加したが、農民工の増加は68元だった。

彼らが一生懸命働いていないわけではないにも関わらず、研究が導き出したのは一生懸命働いても運命を変えることはできないという結論だ。 邱鳳賢は最終的に彼の処遇を説明するために「社会的脆弱性」という言葉を使った。つまり、それは社会から排除するような政策の影響を深く受けており、個人が決められるものでは決してない。彼らの窮状は現代の多くの人々が直面している窮状と驚くほど似ている。ひょっとしたら社会における弱者の共通の宿命なのかもしれない。

「定年退職」は存在しない

趙さんは丸2年間、一銭も給料を受け取っていない。仕事をはじめて4年後、小区は警備員の職位を取り消したため、彼は清掃の仕事に切り替えた。しかしさらに 3 か月後、予想外に清掃の仕事にも給料が出なくなった。趙さんは今でも小区の清掃に力を入れており、毎朝6時に2つのゴミ箱を掃除しに来て、ゴミステーションが開く7時になると「いつも一番先に到着」し、その後また6棟の建物の掃除をしに戻る。食事代を稼ぐためにゴミを分別して自分で売ることで、月に600元ちょっとを収入として得ている。「止めちゃってもいいけど、もしそれで前の給料をくれなかったらどうすればいい?」 彼は、給料を取り戻すまでやり続けなければいけないだろうと言った。

彼も労働調停を検討していなかったわけではない。それは給料未払いの21か月目だったが、調停には契約が必要であることを彼は知らなかったし、この14年の仕事で一度も労働契約を交わしたことはなかった。

この仕事の現状は言ってみればシュレディンガーの猫状態だ。つまり最終的に給料がもらえるならそれは存在するが、もらえなければ給料は存在しない。しかし趙さんの目には、この「仕事」はまだ「苦労して勝ち取ったもの」だ。すでに55歳になった趙さんは、労働市場ではより不安定な日雇い仕事しか見つけることができない。 「退職令」の発布により、彼は建設現場の日雇い労働の資格さえ失うことになる。政策は60歳以上の農民工が建設現場に入ることを厳しく禁止しているからだ。

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趙さんのケースは特別なものではない。多くの60歳前後の農民工たちが仕事を見つけようと懸命に努力している。

上海の建設現場で仕事を探すため、64歳の農民工が偽造身分証明書を取得し、年齢を7歳若く変更した結果、働き始めてわずか2日後に検査で摘発された。 彼には500元の罰金と1日の拘留が科せられた。

同じく上海では、49歳の清掃員が転職を希望したが、年齢を理由にいつも断られていた。 彼女は300元を費やして年齢を11歳若く偽った証明書を取得し、最終的に5日間拘留された。

たとえ仕事を見つけるのが難しくても、たとえリスクを負っても、第一世代の農民工のほとんどはリタイアするつもりはない。 調査対象となった農民工のうち、76.1%が60歳以降も都市で働き続けると答えている。

彼らには退職後の生活を楽しむために必要な条件を満たしていない。 都市の高齢者には月平均3,000元の年金が保証されているが、農民工第1世代ではこの額は300元にも満たない。 その僅かな金額でさえ、65%の人だけが受け取ることができる。彼らの多くは若い頃は老後のことなど考えておらず、給料は今のためにしか使えない。

2009年に年金保険が導入されたとき、35%の人がこの保険が自分の将来にどのように関係するのかを信じていない、または理解していなかったので、保険に加入しなかった。彼らは60歳を過ぎると基礎年金しか受け取れず、それは月額100元強にすぎない。保険に加入している人の中には、年金が「多く支払えば、より多くもらえるもの」であることを理解できている人はほとんどいない。 45歳のある労働者は11年間年金を支払っているが、実際の納付額は低く、60歳を過ぎると月に195元しか受け取れない。その金額を知った後、彼は何の使い道があるんだ?と聞いた。続いて口をついた言葉は「何年も長い間納めてきたのに、なんで月々こんなわずかなお金しか受け取れないんだ?」というものだった。

より高額の年金(月額600~700元)を受け取るために、ある女性労働者は60歳時点で過去15年間の保険料不足分を合計8万元支払う必要があった。 彼女はこの金額を納めることができなかった。 彼女の月収はわずか数千元だ。 「みんなに年金保険料を払えと言われたのに、こんな金額で何を食べればいいの?」と諦め、清掃員として働き続けることを決意した。

これらの農民工にはたいした貯蓄もない。 調査対象者のうち、半数近く(41.22%)は20年以上働いているが、半数以上(55.2%)の貯蓄は5万元未満だ。

彼らはただ働き続けるしかない。 しかし市場や政策の制限により、年齢を重ねるにつれて収入を得る能力が低下していく。

50代であれば、まだ日給300元で建設現場の仕事をみつけることができる。 「一日座っていられない」し、泥バケツや木材を運べと誰かがいえばすぐに助けに行く必要があるが、お金を稼ぐために自ら進んで残業をする人も多い。 山東省の56歳のある労働者は1日最大14時間働き、時には徹夜で残業することもあるが、翌日の日中も働き続ける。

60歳を超えると、苦労してお金を稼ぐ資格さえ失ってしまう。 過去2年間、各地で60歳以上の農民工の建設現場への立ち入りを厳しく禁止する「退職命令」が出された。 転職できるのは造園、清掃、倉庫管理などで、給料は建設現場の3分の1以下だ。

70歳を過ぎると都会に住むチャンスはほとんどなくなってしまう。 71歳のある農民工は故郷に戻ることを余儀なくされ、村での家を建てるのを手伝うことで1日100元を稼いでいた。 彼が75歳のとき、手配師がその村へ来て日給110元の清掃員を募集した。 たった10元多いだけだったが彼は行った。彼の妻(69)は胆石の手術を受けて3か月が経ったばかりだったが、幸いにも働くことができ、収入は合わせて200元以上だった。それ以来、彼と妻は毎日午前6時に車で1時間かけて市内に入り、建設現場にゴミ捨てや床の掃除に行き、午後4時に車で故郷に戻る週7日勤務の仕事をするようになった。 「動けるのはラッキーだけど、動けなくなれば可哀想なことになる」と話した。

仕事と収入は時代によって決定され、努力したところでカネはたまらない

第一世代の農民工のほとんどは、1980 年代半ばから 1990 年代初めにかけて都市で働きはじめている。そして彼らが最もお金を稼ぐことができた若者と中年の頃は偶然都市が最も急速に発展した 30 年間でもあった。ではなぜ時代は彼らに利益をもたらさなかったのか?  なぜ彼らは人生の半分を労働に捧げたのに、ほとんど貯金すらない状態に追い込まれたのか? 過去 30 年から 40 年の間に何が起こったのかを見てみよう。

改革開放後の1980年代に、第一世代の農民工が都市に流入し始め、1989年には第一次「農民工ブーム」が起きた。 同年、各地で農民工の排除が始まった。

1990年、北京は25万人の出稼ぎ解雇を要求し、すべての事業単位と企業は進捗状況を報告するために毎月用紙に記入することが義務付けられた。 当時、「農民工ブーム」が都市経営に影響を及ぼしていた。同時に都市は解雇の波に直面しており、都市住民もまた再就職先を探さなければならないなかで、農民工は都市の「頭痛の種」となった。

それから3~4年が経ち、徐々に市場経済体制が確立され、都市は安価な労働力を大量に必要とし、再び都市への参入が認められるようになった。

2、3年後、市は再び大量解雇に直面したため、彼らは再び解雇された。

しかし彼らはその政策方針を理解しておらず、自分のような存在が以前に「解雇」されたことも知らず、いつか解雇されるとまた仕事を見つけるのが難しいことだけを知っている。 1989年に出稼ぎとして働き始めたある農民工は、仕事が見つからなかった時、自分の布団を持って橋のたもとに1か月間住んでいたという。

1990 年代後半から2000年代前半にかけて、都市は農民工が参加できる仕事の種類も制限しはじめた。

上海では市内の3種類の仕事のうち1種類でだけ、しかも地元出身者が見つからないかぎりにおいて、農民工の活用を「検討することが許可」された。

北京では市内の8業界103種類の職種で農民工の雇用が禁止されていた。

青島では、市営企業は農民工を1人採用するごとに50元を支払わなければならなかった。

彼らは、後からきた農民工のように工場に入って流れ作業をすることさえできず(多くの工場の採用は地元出身者のみに限定されている)、彼らにできるのは建設や人手による積み下ろしなど、地元人が嫌がることだけだ。これらの仕事の多くは「違法労働者」であり、そのうち21%が賃金滞納などの権利侵害に遭遇している。

昇給については言うまでもないだろう。改革開放が成果をもたらした1993年から2005年までの12年間ですら、珠江デルタ地域の農民工の月給は68元しか増えなかった(全国の都市部労働者の平均増加額は1,260元)。 インフレを考慮すれば、働き盛りの彼らの給料は実質常に減給されていたに等しい。

第一世代の農民工の経験は都市開発と密接に関係しているが、彼らは常に受動的な状態にあった。市が必要であれば吸収し、不要であれば排除する。彼らは働き盛りの頃継続的かつ安定的に働くことができず、都市部と地方を行ったり来たりしていた。ここ20 年間でお金を稼ぐ機会は増えたが、彼らもまた年を取り、若い労働者には太刀打ちできない。同時に子供の教育費や住宅、結婚式の費用など、なけなしのお金を支払わなければならず、彼らのわずかばかりの貯金はすぐに空になってしまう。

カネは全部子供たちに与えたのに、次世代の20%未満しか階層を上れない

趙さんには何もないとは言えない。 彼は北京で23年間働いており、20万元を貯蓄している。これは調査対象者の90%よりも高い水準だ。しかしこれには特殊な理由がある。多くのインタビュー対象者とは異なり、彼には養うべき子供がいないのだ。

農民工の第一世代が最も多くのお金を費やしているのは、基本的には子供の教育と結婚だ。北方の農村部では、子供の結婚費用は30万~50万元かかる。 息子が結婚した年、ある農民工の1年の収入は7万元だったが、支出は32万元にも上った。 彼はしかたなく借金した。

その後、彼はすべての借金を返済した。結婚相手の女性は大体「結婚した後に借金を背負いたくない」という要求があるので、子供が結婚した後に結局彼らは全部の借金を自分たちの力で返済しなければならないのだ。

安徽省のある夫婦には 3 人の息子がいたが、最初の 2 回の結婚で貯金を使い果たしてしまい、借りるお金もなく、3 番目の義理の娘に家の費用を支払うと約束した借用書を発行しなければならなかった。 その後、夫婦は一緒にゴミ拾いに出かけた10年間家に戻らず、末っ子にのみ仕送りを続けた。彼らの子供たちはそのお金を自分のために使い、孫たちは都会人になるべく努力するだろうが、農民工の第一世代は依然として家族のために「輸血」を続ける。 2009年のある調査によると、広東省では新世代の農民工の65~70%がその収入を自分のための消費に使ったが、第一世代農民工の80~90%は依然として賃金を送金していた。

第一世代は家族に安定した仕送りをするために、自らの発展機会も放棄してしまう。たとえば、最初にいくらかの資金を投資すれば、小さな請負業者になれるかもしれないのに。なぜなら、彼らはリスクを負い、失敗したら破産してしまうのではないかと恐れるのだ。また自分自身のために貯蓄することもしない。自分自身のためにお金を貯め始めるのは、子孫のための仕事が完了する60歳になってからだ。彼らは、出稼ぎ労働という運命を繰り返さないことを願い、次の世代に希望を託す。しかしその子どもたちのほとんどは中学、高校を中退し、短大以上に進学した子は2割にも満たなかった。 63.5%の子供がまた農民工となった。党や政府機関、公的機関に就職した人はわずか5.1%、自ら事業を始めた人はわずか2.9%だった。

第一世代の子供たちは留守児童の第一世代でもある。どちらにも選択肢はほとんどなく、親は生活のために働きに出なければならず、子供たちは田舎に残らなければならない。インタビューで子どもについて話すとき、第一世代の多くは「子どもは勉強できる器ではない」と運命を諦めているかのように語った。

研究によると、留守児童は親の指導や精神的サポートが不足しているため、学業面で不利な立場にあることがわかっている。 3,500人を対象とした調査では、留守児童は他の子どもたちと比べて、成長後に高強度の疎外労働に適応するのがより困難であることが示されている。 深圳で「一日働き、三日遊ぶ」三和ゴッドたちは、家族を捨て、社会を捨て、最後に自分自身を捨てるという「三捨て」の人生を送っている。その多くが留守児童第一世代である(訳注:ちなみに安田峰俊氏による17年の三和ゴッド紹介記事「中国版の「ドヤ街」はネトゲ廃人の巣窟? 三和ゴッドの暮らしを追う」)。

ある種の循環のように、彼らの子供も子供が生まれた後、親が辿ったパターンを再びたどる。 多くの人が子どもを学校に通わせるために地方都市に家を買うが、彼らは大都市でしか働けないため、その子どもたちはまた新たな世代の留守児童になる。

農民工Aさんはこの悪循環を断ち切ろうとした。 彼は 1989 年に建設現場で働くために上海に行き、1991 年に子供が生まれた。留守児童になるのを避けるため子どもを呼び寄せ、小学2年生から上海に通わせるため年間5000元の「一般家庭の子ども3、4人分に相当する」授業料を払った結果、一銭も貯金できなかった。 そして子どもが中学2年生のとき、外地戸籍では上海の高校を受験できないことが分かり、子どもを一人で故郷に帰さざるを得なくなった。当初上海に6、7年間住んでいたのだからこの子は故郷の同い年たちとは違うだろうと思っていた。しかしこの違いは長くは続かなかった。「子供は一人で家にいて誰も見ていない、勉強もぜんぜんできない」。彼の子供はその後短大を卒業して常州に出稼ぎに行き、その後自分の子供も生まれたが、結局その3 世代めは安徽省の田舎に送られて留守児童になってしまった。当時の授業料の支払いのためAさんには貯金も家もなく、2020年の感染症流行後に故郷に戻るときの最後の仕事の給料4万元も払われなかった。 また彼も年金保険料は「支払えば支払うほど多い」システムであることをわかっていないので、将来的には月に200元しか受け取れない。取材時彼は56歳で、蕪湖市の小さな扉を開けてゴミを集めていた。 彼は30年以上出稼ぎをしたのに、結局はずっと村にいた人たちと何ら変わらないようだ、と語る。

医者にも診てもらえず、働くだけ怪我が溜まっていく

第一世代の農民工の最年少は50歳を超えており、高齢者共通の医者にかかるという問題に直面している。 毎日病院に行って薬を処方してもらう都市部の高齢者とは異なり、医師の診察を受けることはほとんどない。

蕪湖市のあるビル清掃員は医師の診察を受けるために職を失った。 彼女が休暇を取ったのは1日だけなのに、仕事に戻ると会社は他の人を雇ったからもういらないといわれて首になった。それ以来、彼女は二度と病気休暇をとろうとはしない。 彼女は64歳で足も不自由だが、1日2回ビル6階分のモップがけとその他のエリアの掃除を担当している。彼女の月給は 1,800 元。インタビュー中、彼女は床をモップがけしていたが、ひと動作のたびに息を整えるために立ち止まらなければならない。しかし彼女はどうしようもないという。致命的な病気でない限り、年末に実家に帰省するときまで医者にはいかない。

調査では農民工第一世代の61.4%が「健康」が最も心配な問題だと考えていた。しかし…

健康診断に参加したことがある人はわずか 35%。

63.4%は出稼ぎ先の都市で医療機関を受診したことがない。

58%の人が「できる限り我慢する」と回答し、地元の大病院での治療を選択した人は11.8%にとどまった。

農民工の第一世代が働きに出た1980年代から90年代には農村部には医療保険がなく、医師の診断を受ける時に保険をたよることができず、ほとんどの人は苦労して稼いだお金を医療に使いたがらなかった。2010年にはじまった新農合(新農村連携医療)は基本的に全国をカバーすることになったが、戸籍地以外で使うことはできなかった。出稼ぎの仕事中に病気になった場合、まず戸籍のある病院に行って診断・治療ができないことを確認し、紹介手続きを経てはじめて、出稼ぎ先の街で受診することができた。しかもその費用は自分でまず建て替える必要があった。彼らは自費で治療費を支払うか、後で請求できる故郷に帰って治療を受けるかのどちらかだが、交通費、時間的コスト、失業のリスクを負うことになる。

しかしこの新農合に対する態度を尋ねると、半数以上が「満足」と答えた。なぜなら以前はまったく医療費の払い戻しがなかったからだと答えた。彼らは都市の診療における払戻率を知らず、過去の自分と比較するしかないからだ。

病気による痛みだろうと受診が困難だろうと、彼らは耐えることを選択する。 労働災害による腰痛は都市部の高齢者に比べてはるかに深刻だが、彼らは都市部の高齢者のようにマッサージや理学療法、鍼治療などには行かず、絆創膏を貼って耐えている。彼らは医者の言うことを守れないから病院に行っても無駄だと思っている。50代のある女性は長時間の仕事で手首に嚢胞ができて曲げることができず痛みが続いていた。 医師は彼女に仕事が原因なので家に帰って休むように言った。しかし、彼女は働かなければ生きていけないと感じている。

年齢の経過とともに問題は積み重なり、晩年になると実年齢より10歳以上老けて見られることも多い。体の各所に痛みが生じたり、汚染された労働環境によりじん肺やエリテマトーデスを患う人もいる。勤続年数が10年以上の人に比べ5年未満の人は「健康である」という自己評価が44.7%高い。つまり出稼ぎ年数が長いほど健康度が悪化する。

ある農民工は若い頃荷物を背負って運ぶ仕事をしていたが、大きなものでひとつ50キロ以上あって、ひとつ運ぶごとに10元の収入だったので、1日に十数個を運ばなければならなかった。取材時、男性は54歳で、腰を伸ばすことも腕を上げることもできなくなり、病院では肉離れと診断された。

もう一人は長年セメントをシャベルで掘り続け、昼も夜も働き毎日咳き込んでいる。 50歳を過ぎた頃から時々息切れを感じるようになったが、医師の診察にも行かず、休暇も申請しなかった。何年かあとに息切れが本当に酷くなってようやく医者にかかると、肺気腫と診断された。インタビュー当時彼は 57 歳で、歩くと息切れがひどく、数歩歩くと休憩しなければならなかった。 「この病気はどこでも治らないと聞いたので」、そのため治療をやめて子供がタオバオで購入した抗炎症薬を毎日服用するだけになった。 「どうしても辛さが我慢できない時は、病院に行って2日くらい点滴注射を受けるんだ」。

邱准教授は、農民工の第一世代にとって、都市が残した最も深い爪痕は健康問題かもしれないと考えている。「彼らは傷病を負って農村、つまり原点に戻るわけですが、その原点さえもすらも彼らが離れたあの頃の原点ではないのです」。

個人の奮闘は役に立つのか?

第一世代の農民工を形容するのによく使われる言葉に「小農民意識」というものがある。思考力が乏しく、自分の頭によって考えが制限され、より良い生活を送ることができないというものだ。確かに彼らには胆力や開拓者精神が欠けており、投資をする勇気もなく、チャンスを掴めないかもしれない。しかしこれは彼らの厳しい人生の原因ではなく、結果なのだ。 彼らは貯金も保険も家族の援助もないので、当然リスクを取ることに消極的にならざるを得ない。 邱准教授は、彼らから抗リスク能力を奪ったのは社会に排除されているせいであり、その責任が農民たち自身に転嫁されていると考えている。

調査前、邱准教授はこれらの農民工の運命は、社会的要因と個人的要因の両方に関連しているという仮説を持っていた。 しかし調査の結果からこれらの人々の個人的な状況はかなり似通っていることがわかった。大多数の人は中学校を卒業しておらず(83.85%)、技術を学んでいないし(67.4%)、家族は貧しすぎて市内で店を出すことを助けることもできず、人脈もない。彼らは一生懸命働いていないわけではない。 60歳になり本来定年になる年齢に達してもパートタイムで働く機会を求めている。 建設現場に入ることができなければ日雇い仕事をし、午前4時に道路脇で労働者を募集するバンが来るのを待っている。 しかしその努力は無駄に思える。邱准教授は報告書の最後で、「社会的脆弱性」という言葉を使って彼らが直面している窮状を説明した。つまり、彼らの状況と将来は時代の問題であり、社会政策による排除に大きく影響を受けており、個人が決めることができるものではないのだ。

忘れられた世代

農民工第一世代の状況を人々が真に理解することは困難だ。 邱准教授はかつて、農村部の高齢者にもっと良い雇用の機会を提供することを呼びかける記事を書いたことがある。しかしある専門家はそれを「人間味がない」と批判し、高齢者はリタイアさせるべきだといった。邱准教授は、こうした意見は田舎に対する理解が欠けていると考える。もし彼らが働くことを禁止されたら、誰が彼らの生活費を払うのだろう?

彼らには自分たちのために声を上げ、自分たちの権利のために戦う意識も能力もない。教育を受けておらず、メディアの使い方も知らず、ただ苦しんでいるだけだ。インタビューでは彼らは疲れていると訴えることはほとんどなく、「疲れない人生なんかないだろ」と言う。自分の健康を害しているのにそれを普通と思い、「一生働き続けているのに、どうして健康でいられるのか」と言う。彼らに将来の計画は何ですかと尋ねると、「流れに流されて生きていくだけ」と答える。これは、この社会がどのように発展するかを見ることを意味する。 最後に彼らは静かに故郷へ帰っていく。

邱准教授は1979 年生まれで、父親、兄、妹はみな出稼ぎに行ったことがある。「もし出稼ぎに出ていたら、私もまた農民工の第一世代だったでしょう」。その後、彼女は家族の中で唯一の大学進学者になった。 彼女より数歳下の妹は、学費を稼ぐために16歳で働きに出た。 2003 年、邱准教授は大学を卒業し、妹と義弟に会いに上海の建設現場へ行ったが、建設現場には夫婦部屋はなく、二人は大部屋で暮らしていた。部屋には他に十数人がいて、木の板で仕切られた別室があるだけだった。学者になった後、彼女は本能的に第一世代の農民工に注目したいと思った。

研究を始めると、農民工たちは熱心に訴えたいと思っていることがわかった。 一人に質問すればすぐに人が集まってきてみんなで大騒ぎするので、一人にきちんとインタビューすることすら難しい。 仕事が見つからない、家に帰る経済的余裕がない、家族が病気だと口々に言うが、問題はほぼ同じ種類のものだった。彼らはこれらのことは家族に話すことができず、出稼ぎ経験のない親戚も理解できないと言う。そして同僚に愚痴ることもできない。毎日のように仕事場所が変わるので友達をつくるのも難しい。ひょっとしたら彼らの代わりに声を上げるルートを持っているかもしれないとは言え、都市住民に訴えるのはさらに無理だ。ある農民工は都市から隔絶された閉鎖空間である現場に長年いるので、都市の人々がどのような生活を送っているのかよく分からず、つい最近抖音を使って初めて見たといった。

確かに彼らはいま一歩一歩私たちの視界を離れ、私たちが見慣れないながらにどんなものかはうっすら分かる建設現場から、決して見ることも考えることもできない場所へと徐々に後退していっている。彼らはひょっとしたらあなたの住む小区で、廊下の床をモップ掛けし、エレベーターを掃除しているかもしれない。またあなたが働いているビルの建物の前の草を刈って、花や植物に水をやっているかもしれない。しかしあなたはそれらに気付かずに毎日出入りするだろう。

そうなれば、建設現場の前を通るときのように、彼らの共通のアイデンティティについて考えることもなくなるだろう。歳をとった彼らはぼろぼろに崩れて風に乗って街の隅々まで飛ばされた石のようなもので、あなたにはもはや石としての姿は見えないのだ。邱准教授はかつて、「農民工が年老いたら何をするのか」ということは、都市部の人々の心には決して届かないかもしれないと悲観的に考えていた。あの人たちは田舎の人で、年をとったら田舎に帰るのが当たり前のことだから、と。彼らの差し出した努力と対価について深く考えてはじめて、彼らと都市住民は同じように都会の仕事に一生を費やすのにも関わらず、彼らには最終的に何も残らないことがまったく正常ではないことに気付かされるのだ。

 

参考资料:
仇凤仙. 第一代农民工可持续生计研究. 2023
包小忠. 刘易斯模型与 “民工荒”[J]. 经济学家, 2005, 4: 55-60.
江立华. 论城市农民工的平等竞争权问题[J]. 华中师范大学学报: 人文社会科学版, 2002, 41(4): 10-13.
汪建华, 黄斌欢. 留守经历与新工人的工作流动——农民工生产体制如何使自身面临困境[J]. 社会杂志, 2014, 34(5): 88-104.