――作为一位写作的人,希望下一代能够自由毫无挂虑地使用汉语(ひとりの物書きとして次の世代には自由に、何の心配もなく中国語を使えていてほしい)。

この件を紹介した台湾出身の作家廖信忠が自身のオフィシャルアカウントの記事の締めくくりにした言葉だ。

今回紹介するのは、既に全世界の問題となった感もある新型肺炎の震源地でもある武漢の病院の急診科(救急救命科)のリーダーであり、この新型肺炎の発生について武漢内の医師に最初に警告を発した人物、艾芬(アイ・フェン)への独占インタビューだ。

インタビューした雑誌「人物」は芸能人から市井の一般人まで様々な人へのインタビューで構成された雑誌だ。当サイトでも以前北京のバー街三里屯の花売りのおばさんのインタビューを翻訳したことがある(「生き証人が語る三里屯の20年」)。今回の武漢の新型肺炎騒動では暴れまわる財新や三联生活周刊などに比べればそこまでの特ダネを出していなかった「人物」が他誌を差し置いて渦中のこの病院の核心的人物の単独インタビューを取れた理由はわからないが、衝撃的といえばいいのか…翻訳のために読んでいても非常につらい内容だ。

この記事は3月10日朝に投稿され、長くとも2時間程度で削除された。聞くところによると掲載予定だった紙の雑誌はすべて取り下げ、定期購読者には返金措置となったらしい。

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それでも人々は様々な手段で転送を続け、当局はいちいちそれを消しというイタチごっこの末に、英語や日本語を始めとする様々な言語、縦読み、右から読む、モールス信号、16進法、絵文字…などありとあらゆる方法でその規制から逃れようという動きが起こった。ざっと見つけられただけでこの数になったので、貼ってみよう(クリックで拡大)。この数で騒動とその中に込められた怒りがわかる…というと言い過ぎかもしれないが。

この(絵文字版や甲骨文字版などそのいくつかは正直大喜利にしか見えないような)民衆と当局側とのやり取りもまたニュースになった(例えば朝日新聞「記事削除に反発、絵文字やQRコードで拡散し抵抗 中国」)。しかしこれは笑い事ではない。それを鋭くえぐったのが冒頭に引用した作家廖信忠の言葉だ。

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上記の朝日の記事もそうだが、結局当局がそこまでして隠したかったこの話の本筋である艾医師の証言は十分に紹介されているとはいいがたい。絵文字版は確かに見た目は面白いが、言ってしまえば単なる遊びだ。かといって日本語でほかにきちんと紹介されている様子もない…ということで自分で訳出することにした。

文章全体から、200人のスタッフを率いて戦った艾医師の内心の寂寥が伝わってくる。副院長3人が感染するなど恐らく病院全体の組織として正常に機能していないとはいえ、実名でここまでの内容を言ってしまってはこうした組織内での今後の立場はないだろう。おそらく彼女はこのインタビューをもって職を辞する覚悟だったのではないかと思われる。こうした人物がその後どういった道をたどるのかわからない。ひと時の休息の後、せめて幸福な人生を送ってほしいと思うのだが。

※本記事中には多くの医療用語が登場するが、僕自身医学方面の知識があるとはいえず、またストーリー全体との関連も薄いため、あまり追い込んで調べていない。正確性については(必要であれば)各自確認してほしい。

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笛を配るひと

出典:发哨⼦的人(人物、ただし削除済。転載された記事

(訳注:この部分は「人物」誌のいつもの様式として本文中のいくつかの文章の抜粋が掲載されているが内容としては重複しているので割愛)

これは、雑誌「人物」の3月号特集「武漢の医師」の二番目の記事にあたる。

文|龚菁琦 編集|金石 摄影|尹夕远

武汉市中心医院急诊科主任艾芬(アイ・フェン)医師からインタビューを受けるという連絡をもらったのは、3月1日の朝5時だった。それから約30分後、3月1日朝5時32分、彼女の同僚で甲状腺乳腺外科主任の江学庆は新型肺炎により帰らぬ人となった。2日後、眼科副主任梅仲明もまたこの世を去った。梅仲明と李文亮は同じ部署だった。

2020年3月9日現在、武汉市中心医院では既に4名の医療関係者が新型肺炎によって亡くなっている。疫病の発生以来、華南海鮮市場から数キロしか離れていないこの病院は武漢市で医療人員の感染人数がもっとも多い病院のひとつとなった。関連報道によると既に200人以上の職員が感染し、その中には3人の副院長と多くの診療科の主任が含まれている。そして今現在も多くの主任たちがECMO(体外式膜型人工肺)による生命維持を受けている。

死の影はこの武漢最大の三甲病院(訳注:三级甲等医院、中国の法律区分で最高の病院)を覆っていた。ある医師は記者に病院職員全員のwechatグループの中ではほとんどの人が一言も発せず、ただ個人的に黙って追悼し、あるいは討論するだけだと語った。

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悲劇には避けるチャンスがあった。

2019年12月30日、アイ医師はよくわからない肺炎患者のウイルス検査レポートを入手した。彼女は「SARSコロナウイルス」と書かれた部分を赤色で丸く囲み、大学の同級生から聞かれた時にそのレポートの写真を撮り、同級生に送った。その夜、このレポートは武漢の医師グループに出回り、このレポートを転送した人の中には、あの8人の警察に呼び出された医師たちも含まれていた。

これはアイに多くの面倒事をもたらすことになった。情報の発信元として彼女は病院の紀律委員会に呼び出され専門家がデマを流したとなじられ「前代未聞の厳しい叱責」を受けることになった。

3月2日午後、アイは武汉市中心医院の南京路院区で「人物」の単独インタビューに応じた。彼女はひとりで急診科のオフィスに座っていた。以前1日で1500人もの患者を診察した急診科はようやく元の静けさを取り戻し、ホールにはひとりのホームレスが寝そべっているだけだった。

これまでの報道では、アイは「当局に呼び出しを食らった女医がまた一人浮かんだ」と言われ、またある人は彼女のことを「ホイッスルブロワー(訳注:笛を吹く人、内部告発者のこと)」。アイは自分は笛を吹いた人ではなく、笛を配った人だとこの言い方を訂正する。
インタビューの中で、アイは何度か「後悔」という言葉を口にした。彼女は病院から叱責を受けたあと笛を吹き続けなかったことを後悔している。特にその後悔は世を去った同僚に向けられている。「もしこんな事になるとわかっていたら、彼らに批判されようがされまいが『俺様』なら言い回ったはずです。そうでしょ?」

アイはこの2か月強、武汉市中心医院で何を経験したのか。以下が述懐だ。

艾芬(アイ・フェン)

前代未聞の叱責

去年12月16日、我々南京路院区の急診科は1人の患者を診た。高熱が続きずっと服薬したもののよくならず、体温を下げようにもどうにも下がらなかった。22日に呼吸科に送り気管支ファイバースコープ検査を行って肺胞洗浄液のサンプルを外部のハイスループットシークエンスに送り、追って口頭でコロナウイルスであるという報告を受けた。当時の同僚は私の耳の横で何度も「アイ主任、あの人が報告したのはコロナウイルスです」と言った。あとになってその患者が華南海鮮市場で働いていたと知った。

そのすぐあと12月27日、南京路院区にまた一人の患者が訪れた。その人は同僚の医師の甥で、40代。全く基礎疾患はないが肺は手に負えない状態で、酸素飽和度は90%しかなかった。他の小さな病院で10日前後治療を受けたが全くよくならず、呼吸器科の集中治療室に入った。そしておなじように肺胞洗浄液を検査に送った。

12月30日の昼、同济医院で働く同級生がwechatのチャットログのキャプチャを送ってきた。そこには「華南(海鮮市場)にいかないほうがいい、あそこでは多くの人が高熱を出している」と書かれていた。彼は私にこれは本当かと聞いた。それを受け取った時ちょうど私はPCを開いてとても典型的な肺感染患者のCTを確認していたので、そのCTを11秒の動画に収めて彼に送って、彼にこれが今日午前来た急診の患者で、この人も華南海鮮市場に関係があると伝えた。

その日の午後4時ごろ、同僚がある検査報告書を見せてきた。そこには「SARSコロナウイルス、緑膿菌、46種の口腔/気道常在菌」と書かれていた。私は仔細にかつ何度もこのレポートを見直し、下の方に注釈としてSARSコロナウイルスは一本鎖プラス鎖RNAウイルスだ、そしてこのウイルスの主要な感染は近距離の飛沫感染および患者の気道分泌物に接触するにより明確な感染性を帯び、多臓器系に及ぶ特殊な肺炎を引き起こす、として「SARS型肺炎」とも書いた。

その時、この恐ろしいものに対する恐怖による冷や汗が頬を伝った。患者は呼吸器科に入院しているので彼らはきっと状況を報告してくるはずだ。しかし念を入れるためと、私がそれを重視しているという点を伝える為、すぐに病院の公共衛生科と感染管理科に直接電話し情報を共有した。

その時ちょうどSARSの時もすでに働いていた呼吸器科の主任が私の部屋の前を通りがかったので、彼を引っ張り込んで「あなたの科にいる患者からこれが見つかった」と話した。彼もこれを一目見てすぐに、これは厄介なことだ、といった。

関係部署に電話した後、同級生にもこのレポートを転送した。重視してもらうため、あるいは注意を引くために「SARSコロナウイルス、緑膿菌、46種の口腔/気道常在菌」という一連の文字を赤で丸囲みした。またこのレポートを科の医師たちのグループにアップし、みなに注意するように呼び掛けた。

夜になってこの情報が知れ渡り、グループにあふれるキャプチャは私のその赤い丸で占められた。後になって知ったけど、李文亮がグループに出したのもこの写真だった。心の中でもしかしたら面倒になったかもしれないと思った。夜10時20分になって病院が市の衛生委員会の通知を転送してきた。大まかな意味は、市民のパニックを避けるためにも原因不明の肺炎について勝手に対外的に情報を公表してはならない、もし万が一そうした情報を勝手に出してパニックを招いた場合、責任を追及するというものだった。

それを見た時は恐れの気持ちでいっぱいだった。そしてこの情報を同級生にすぐに転送した。1時間ほどしてまた病院から通知があり、そこにはグループ内の関連情報を外に出すなと強調されていた。次の日1月1日夜11時46分、医院監察科科長から翌朝出頭するようにという指示が届いた。

その夜はまったく寝れなかった。すごく心配で、何度も寝返りを打ちながら考え、物事にはすべて二面性があり、もしよくない影響があったとしても、武漢の医療関係者に防疫を呼びかけること自体は必ずしも悪い事ではないと自分に言い聞かせた。翌朝8時過ぎシフトの引継ぎも終えないうちに、出頭しろという催促の電話がまたかかってきた。

その後の约谈(訳注:事情聴取/ヒアリングと訳されることが多いが、政府機関などが企業を呼び出し改善を要求する時などに使われる)は私が今まで経験したこともない非常に厳しい叱責だった。

その時私を叱責した幹部は「我々は会議に出席する時も恥ずかしくて顔をあげる事ができない。某某主任が我々の病院のアイとかいう医師を批判したからだ。お前はプロとして、武汉市中心医院急诊科の主任として、どう考えたらこのような組織の規律を乱すようなことができるんだ?」これは彼が言ったセリフ一言一句そのまま。彼らは私にもどって私の部署の200人以上もいるスタッフ全員に、デマを流すなと伝えろと命令した。しかしwechatでSMSのメッセージではだめだという。面と向かって話すか電話で伝えろ、しかし肺炎に関する事だとは話してはならない、「自分の夫にすらも言ってはならない」と…

頭が真っ白になった。この人は私が仕事で努力しなかったことを批判しているのではなく、この全武漢の発展のまたとない機会が私ひとりによってめちゃくちゃにされたと言われているかのようだった。絶望を感じた。

私は普段は真面目に仕事をするだけの人間だ。自分がすることはルールにのっとった事だけだし、道理がある事だ。私がどのような間違いを犯したと言うのか?このレポートを見た後病院にも報告したし、同級生や同業の医者とひとつのケースについて意見交換をしたのは確かだが、それは医療従事者同士の交流であり、患者のいかなる個人情報も漏らしてはいない。一人の臨床医として、患者の体内に重要なウイルスがある事を発見した後、もし別の医者に問われた時、どうして答えない等という事が可能だろうか。これは医者としての本能だ。そうでしょう?何か間違いを冒したとでもいうのだろうか。私はひとりの医者で、ひとりのするべきことをする人でありたい。もし他の誰かがこの立場だったとしても、同じようにしただろう。

叱責を受けた時、非常に情緒不安定になっていた。これは私がやった事で他の人とは関係ない、いいから私を牢に放り込めばいいと言った。さらに、この状態ではこの職務を続けることはふさわしくないので、ひと時やませてほしいとも言った。しかし幹部はそれに同意せず、いまはお前を見定めているのだと言った。

このことはよく覚えているけれど、夜になって家に帰り、扉を開けて部屋に入り夫に「もし私になにかがあったら子供をよろしく頼むわ」と言った。二番目の子供はまだ1歳ちょっとだったから。私は警告を受けたことを言わなかったので、彼は何を言われているかさっぱりな様子だった。1月20日に钟南山博士が人から人に感染するといってからようやく私は彼にあの日何が起こったのかを伝えることができた。それまでの間、家族にさえも、人の多い所にいかないこと、出かけるときはマスクをすること、とだけ言うのが精いっぱいだった。

周りの科

多くのひとが私もまたあの8人の1人として叱責を受けたのではないかと心配していた。実際のところ私は公安局に叱責を受けたことはない。後になって友人に「あなたは笛を吹いた人なのか?」と聞かれた時私は「私は吹いていない、ただその笛を配っただけよ」と答えた。

しかし、あの事情聴取のショックは大きかった。非常に大きかった。倒れ込んでしまいそうで本当に衝撃が大きく、心が崩れ落ちそうになった。真面目に仕事をしていて、あとで多くの人に問われても、私はなにも答える事ができくなったのだ。

私にできたのは、まず急診科に防備を重視させることだった。我々急診科には200人以上のメンバーがいたが、1月1日から後は皆に防備強化を呼びかけ、全てのメンバーがマスク、帽子着用を必須とし、手指の消毒も行うようにした。ある日引継ぎの時に男の看護師がひとりマスクをしてなかったのを見て、その場で「今後マスクをしていないならば仕事に来る必要はない」と叱りつけたのをよく覚えている。

1月9日、仕事を終えて帰る際、受付にいる患者が皆のいる場で咳をしているのを見た。その後、私は来院患者もマスクをするようにと要請した。1人に対して1つのマスク、今この時期はカネを惜しむべきではない。
その時まだ外ではヒトヒト感染について語られてはいなかったが、私はここでまたマスクをして防備をするようにと強調していた。これは矛盾にみえただろう。

その時は非常に憂鬱で、つらかった。ある医師が隔離服を着て外に出ようとしたが院内の会議で「外でそうした服を着ていることを見られたらパニックになりかねない」という理由で却下された。私はみなに白衣の下に隔離服を着させた。これは本来の規則違反だし、でたらめな話だ。

私は何もできずに患者が増えていく様子を見ていた。もともとは華南海鮮市場付近が感染エリアだったものが、感染、感染の繰り返しでどんどんその規模は大きくなっていった。多くは家庭内感染で、初期の7人のケースだと、母が子供に食事を届けて感染したという例まであった。診療所の経営者が感染したのは来て注射を受けた患者からうつったもので、いずれも重症だった。その頃私はヒトヒト感染を確信した。もしヒトヒト感染がないのならば、華南海鮮市場が1月1日に閉鎖された後でもなぜ患者が日増しに増えていくのだろうか?

多くの時私は、もし彼らがあの時あのように私を罵らなければ、穏やかにこの件の経緯について問い、他の呼吸器科の専門家とも話し合うことができて、そうであればもう少し状況は良かったかもしれない。少なくとも私は院内の別の医師と意見を交換する事ができただろう。もし1月1日の時点でみながこのように危機意識を持っていたら、このような悲劇は起きなかったのではないか。

1月3日午後、南京路院区で泌尿器外科の医師が集まり、共に引退した主任の功績を振り返っていた。参加していた医師胡卫峰は43歳で、現在緊急処置中だ。1月8日午後、南京路院区の22号棟では江学庆主任が甲状腺乳腺外科患者の回復お祝い会を開こうとしていた。1月11日朝、科のスタッフから急診科の緊急処置室の看護師胡紫薇が感染したと報告を受けた。おそらく中心病院で感染した最初の看護師だろう。すぐに医務課課長に電話して報告し、病院では緊急に会議が開かれた。会議の席上「両下肺、ウイルス性肺炎?」というタイトルだった報告書は「両肺に感染が散在している」という風に変えるように指示された。1月16日最後の一週の会議にて、ある副院長が「みなもっと医学常識を持った方がいい。経験が長い医者はこのようなことでいたずらにパニックを起こすべきではない」。他の幹部も「ヒトヒト感染はない、防ぐことも治すこともコントロールすることもできる」とまだそんな事を言っていた。その翌日1月17日江学庆は入院し、10日後挿管、人工肺を装着する事になった。

中心病院が払った代償はこのように大きかった。これは我々医療スタッフに対して情報が適切に公開されていなかったというに関係する。急診科も呼吸器科もそこまでひどい状況にならなかったのは防御意識があったことと、発病した場合すぐに休ませ治療を受けさせたことが大きい。深刻だったのはその周りの科で、例えば李文亮は眼科、江学庆は甲状腺乳腺科だった。

江学庆は本当にいい人だった。高い技術を持ち、中国医师賞を取った全病院の中の2人しかいないスタッフの1人だった。そして彼は私のご近所さんで、私は40何階に住み、彼は30何階に住んでいた。すごくいい関係だったけど普段は二人ともバタバタしていて打ち合わせや病院院内イベントの時に会うだけという感じだった。彼はワーカホリックで、大体は手術室にいるか、もしくは問診していた。誰もわざわざ彼に「江主任、気を付けてください、マスクをつけてください」などとご忠告する者はいなかった。彼自身もわざわざそういう事に注意を払う余力もなかったし、「何の関係がある?単なる肺炎だろ?」という感じの態度だったと同じ科の人が言っていた。

もしこうした医師たちがきちんと注意喚起をされていたら、ひょっとしたら今日のような日は来なかったかもしれない。だから、私は当事者としてとても後悔している。もしこのような事になると知っていたら、誰が私を批判しようとしなかろうと、「俺様」はどこででも言っただろう、そうでしょう?

李文亮とは同じ病院に所属していたけれど、病院は大きく4000人以上のスタッフがいるし平時は忙しいので、亡くなるまで面識はなかった。彼が亡くなったその日、ICUの主任が電話をかけてきて急診科にある心臓与圧器を借りに来た。李文亮に緊急処置が必要だと言う話を聞いて非常に驚いた。彼の事情について了解はしていなかったが、彼自身の病状と彼が叱責を受けた後の心と関係はないのだろうか?ここに私は疑問符を打たざるを得ない。叱責を受けたという事がどういうことか、自分も身をもって味わっているからだ。

後になり様々な事情が明らかになって李文亮の行為が正しかったとわかった頃、私は彼の心情をよく理解できた。私と多分一緒で、興奮でも喜びでもなく後悔、もっと大きな声をあげるべきだったという、質問してきたすべての人たちに言い続けるべきだったという後悔だろう。何度も何度も、もし時計の針を戻すことができたらもっとよくできたのにと思った。

生きてさえいれば、それでいい

1月23日に武漢の街が封鎖される前の晩、政府の関係部門の知人が武漢市における急診患者の真実の状況を聞いてきた。私はその人にあなたは私人として訊いているのか、それとも政府の立場としてなのかときいた。彼は私人として訊いていると告げた。私はならば私も個人として本当のことを話そうといって、1月21日、急診科は平時の最も多い時の3倍にあたる1523人の患者を診て、その中で発熱者は655人いたと伝えた。

急診科のその時の光景は、それを経験したものにとって一生忘れることはできない、ひとの人生観すべてを根底から覆すものだった。

戦争に例えるのならば、急診科はまさしく最前線だった。しかし当時の状況と言えば病棟は既にいっぱいで一人も入院させることはできず、ICUも未感染の患者がいるからもし受け入れたら内部が汚染されてしまうと言って受け入れる事ができず、患者は絶えることなく急診科を訪れ、後ろの道は通れなくなり、結局そのすべての患者たちが急診科の前に折り重なっていた。

診察を受けたくて来たとしても列に並んだら数時間並ぶ必要があり、我々もずっと仕事を終えられなかった。発熱外来と急診もわけることができなくなり、ホールにも患者が溢れ、緊急処置室も輸血室もどこも患者であふれていた。

家族と一緒にくる患者もいて、例えば「私の父が車の中にいてこちらに来ることができない、タンカが必要だ」と訴える家族がいた。その頃地下駐車場は既に封鎖されており、彼らの車も敷地に入ってこれなかったからだ。しかし私にもどうする事も出来なかった。人を連れて道具をもって車のところまで駆け付けたが一目見てもう亡くなっているとわかった。もしどんな気持ちだったかと聞かれれば、とても…とても受け入れがたい、つらいとしか言いようがない。この人は車の中で死ななければいけなかった。車を降りる機会すら与えられなかったのだ。

またそれ以外にも奥様を金银潭医院で亡くしたばかりのとある老人の患者がいた。彼の子供たちも感染した。点滴している時子供たちを見ていたのはその娘婿だったが、私がその子たちを見た所すぐに症状がかなり悪いことがわかった。呼吸器科にすぐに連絡して入院させた所、一目見て教養のありそうなその娘婿はこちらに歩いてきてお医者様ありがとうなどといったけれど、私は早くいきなさい、時間を無駄にしてはいけないと送り出した。
しかし結果的にこの子も亡くなった。「谢谢(ありがとう)」と一言いうのは数秒の時間だけれど、その数秒を無駄にしたことでこの命は失われたのだ。この「谢谢」は私を本当に打ちのめした。

他にも多くの人が家族を緊急処置室に見送り、それが彼らが会う最期の一回になった。二度と会えないのだ。

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大晦日(旧暦最後の日、20年は1月24日)の朝、出勤した時、大晦日を祝ってみんなで写真を撮り、wechatのモーメンツに投稿した。その時誰もおめでとうなんて言わなかった。生きてさえいれば、それでよかったのだ。

普段ならもしあなたがちょっとしたミスをして、例えば時間通りに注射をしなかったとしたら、患者はひょっとしたら文句を言ったり騒いだりしたかもしれない。いまとなっては誰もいない。誰もあなたに喧嘩をふっかけないし、誰も文句など言わない。みんな突然の打撃に打ちのめされている。

患者が亡くなった時、親族が傷心のあまり泣き暮れるのを見ることは少なかった。亡くなる人が多すぎた、あまりに多すぎたからだ。「お医者様お願いだから家族を助けてください」という人もいなかった。逆に医師たちに「もう既に助からないなら早く楽にしてやってください」とさえ言った。このころ、みな自分も感染することを恐れていた。

ある日、発熱外来の入り口が列になっていた。5時間も待たなければならなかった。その時並んでいた女性がひとり倒れた。レザージャケットを着てハイヒールを履き、バッグを背負っている様子から、洗練された中年女性の様子だった。でも誰も彼女を助け起こす勇気がなかった。だから彼女は長い間そこに横たわったままだった。私が気づいて看護師と医師が助けるまでずっと。

1月30日の朝病院にきた時、ある白髪の老人の32歳の息子が亡くなったというので、その死亡証明を受け取りに来ていた。彼は医者をじっと見つめていたが、まったく涙を見せなかった。どう泣ければいいのか?それすらわからない様子だった。身なりを見るとおそらく外地から来た日雇いの人という感じだった。きちんと確定診断をしてもらうこともなかった彼の子は、一枚の死亡証明書という紙切れに変わってしまった。

これも私が言いたかったことだ。急診科にきて亡くなった多くの人は診断を受けることすらできないままに亡くなっていった。この嵐が過ぎ去ったら彼らに説明をしたいと思う。彼らの家族に少しでも慰めを…患者たちはかわいそうすぎる。あまりにかわいそうだ。

「幸運」

こんなに長い間医師としてやってきて、どんな困難でも私を打ち倒す事はできないとずっと信じてきた。これは私の性格や経験と関係がある。

9歳の時、私の父は胃がんで亡くなった。その時から大きくなったら医者になって誰かの命を救いたいと思っていた。大学入試のとき私は医学部だけを志望校として書き込み、最終的に同济医学院に入った。1997年に卒業し、中心病院に入った。当初は心血管内科にいて、2010年に急診科に配属になり主任になった。

私にとって急診科は私の子供と同じで、私がこんなに大きくなるまで育てたし、みなを団結させたのだという気持ちがある。それは簡単な事じゃないし、だからこそこのグループを得難いものだと思っている。

数日前、急診科の看護師のひとりがモーメンツに「以前の忙しい急診科が懐かしい」と書き込んでいた。その「忙しい」と今回の「忙しい」とは全く別物だ。

この疫病の前、心筋梗塞、脳梗塞、消化器出血、外傷といったものが我々急診科が診るものだった。こうした忙しさも勿論忙しいのだけど、目的は明確だし、それぞれの病気に応じてこうすべきというプロセスとアプローチが確立されていた。次になにをするべきか、どうするのか、もしトラブルがあった時は誰に聞けばいいのか…など。しかし今回はこんなに多くの重篤な患者がいながらどうする事も出来なかった。入院させることもできなかった。我々医療スタッフ感染のリスクも高い中、こうした忙しさは本当にやるせない、心が痛むものだった。

ある日朝8時に急診科のちょっと性格に癖のある若い医師がwechatで「今日はちょっと調子が悪いから出勤しません」メッセージを送ってきた。我々の規則はかなりかっちりしていて、もし体調不良なら事前に申し出る必要がある。8時になってから言われても代わりをどうやって探したらいいのかと私は言った。すると彼は怒り出して、たくさんの感染が疑われる患者があなたの率いる急診科によって社会に追い戻されている!これは罪に他ならない!などと言った。私も彼の言葉が医者としての良心から発せられたことを知っていた。しかし私もじれていたので、じゃあ私を訴えればいいじゃない?逆にあなたが急診科の主任だったらどうしたというの?と答えた。

その後この若い医師は数日休み、普通に戻ってきた。彼も死ぬのが怖いとか疲れたくないとかそういった事を言っていたわけではなく、このひどい状況の中で、一気にこんなに多くの患者たちと向き合って、心が折れそうになっていたんだと思う。

医者として、とくに後から支援にきた多くの医師たちからすれば、こうした事はまったく受け入れがたかった。医師や看護師の中には泣いている者もいた。誰かのために泣く人も、自分のために泣く人もいた。自分にいつ感染する順番がまわってくるのか、誰もわからなかったから。

一月の中旬か下旬くらいになって、院内の上層部が次々に病に倒れた。私たちの外来診療事務室の主任や三人の副院長も含まれていた。医務課課長の子供も罹患し、彼自身も家で休んでいた。その時期は基本的に誰も他の人になんて構っていなかった。それぞれ自分の持ち場で闘え、といった感じだった。

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私の周りの人たちもひとり、またひとりと倒れはじめた。1月18日朝8時半、最初の医師が罹患した。彼は「主任、どうやら僕は当たってしまったようです」と私にいった。熱はなかったがCTを撮った所肺はすりガラスのようになっていた。それから少しもしないうちに、隔離病棟を管理する責任者の一人の看護師が自身も感染したと伝えてきた。夜になって、我々の看護師長も感染した。その時の私の最初の気持ちは、ああこの人たちは運がいい、早い時期に倒れればその分早く戦場を離れる事ができるといったものだった。

この三人すべてと私は濃厚接触していた。だから私はいつか必ず倒れると思いながらも毎日仕事をしていたけれど、結局感染する事はなかった。病院のすべての人は私は奇跡だといった。自分で考えてみたが、ひょっとすると私は元々喘息持ちで一種のホルモン剤のようなものを吸引していたので、ウイルスが肺の中に溜まる事を防げたのかもしれない。

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私はずっと急診科のひとたちは皆医師としての想いが強い人たちだと思っている。中国の病院において急診科の地位は全ての診療科のなかで低いと言わざるを得ない。それはみな、急診科を単なる通路でしかないと思っていて、患者を受け入れるだけの役割しかないと思っているからだ。今回の災禍の中でも、このような蔑視はずっとあった。

最初のころは物資が足りないからと急診科に配られる防護服にはとても質が低かった。私のチームの看護師たちがそうしたひどい防護服を着て仕事をしているのを見て私は怒りを覚え、週会のグループの中でキレた。その後ちょっとだけ状況はよくなり、多くの部門の主任たちは自分たちの部屋にしまってあった服を私たちに届けてくれた。

また、食事の問題もあった。患者が多い頃管理も非常に混乱していて、彼らは急診科のスタッフがご飯を食べていない事に思い至らなかったりもした。多くの診療科は仕事を終えたあと飲んだり食べたりするものがずらりと用意されていたが、私たちにはなにもなかった。発熱外来のwechatグループの中である医師が「私たち急診科にはおむつしかない…」と恨み言を言っていた。私たちは最前線で闘っていた。しかし結果はこのざまだ。時には心には何ともいえない怒りを覚えることもあった。

40人以上が感染した。私は感染したスタッフを集めてwechatグループを作った。本当は「急診科発病群」と名付けたけどある看護師がちょっと不吉だと言うので「急診加油群(訳注:加油=がんばれ、またここでは補給のためにひと時休憩中の意か)」とした。発病者たちも必要以上に悲しんだり絶望したり恨み言を言ったりといった事はなく、積極的にお互いで助けあい、みんなでこの難しい局面を乗り切ろう、というような雰囲気だった。

この子たちははとても良い子だ。しかし私についてきたことで、時に不当な扱いを受け悔しい思いもした。私もこの災禍が過ぎ去ったあと、国が急診科にたいしてもっとリソースを投入してほしいと願っている。多くの国の医療体系において、急診のプロは非常に重視されている。

手に入れることができない幸福

2月17日、私は(訳注:契機となった画像を最初にうけとり、他に転送した)同济医院の同級生から「申し訳ない」というメッセージを受け取った。私は「むしろあなたが転送してくれたおかげで一部の人には注意喚起をする事ができた。もし彼がそうしなかったら、李文亮をふくむあの8人はいなかったし、このことを知りえたのはもっと少ない数だったかもしれない」と返信した。

今回、3人の女性医師の家族全員が感染した。2人は夫、夫の父、母が感染し、残りの1人は父母、姉、夫、それに自分自身の5人が感染した。みな、こんなに早くウイルスに気づいていたのにそれでいてこんな結果になってしまったのかと愕然とした。こんな大きな損失に、代償はあまりに大きく、各方面に及ぶ。亡くなった人だけでなく、生き残った患者たちもみなそれを受け入れなければいけない。

私たちの「急診加油群」では常にお互いの身体の状態について情報交換がされていて、例えば誰かがずっと心拍が120回/分だといっていた。これは深刻なのかといえば当然深刻だ。すこし動いただけで動悸になるのであれば、これらは彼らの一生に影響しかねない。ひょっとしたら年を取ったあと心肺機能が人より早く衰えないだろうか…いまは何も判断できない。誰もが山に登ったり旅行に行ったりできる中で、その人だけができないかもしれない。そうした(後遺症が残る)可能性は常にある。

武漢もだ。みな武漢という街は賑やかな場所だと言うが、いま街に出てもまったくの静寂だ。多くのものは買おうと思っても手に入らず、全国から支援をもらっている状況だ。数日前、広西からきた支援の看護師が仕事中に突然意識を失った。緊急処置を行いなんとか心拍は取り戻したが、まだ昏睡の身だ。彼女はもしここに来なければ、こんなひどい目にあわずに自分の家で楽しく過ごす事ができただろう。

・・・・

今回の災禍をによって病院の多くの人に深い傷跡を残した。私の部下、特にチームの中心的役割を果たしていたような医師も少なからず辞めたいといってきた。みな、以前この医師という職業に対して持っていた考え方や常識が揺らいだことは否めない。こんなにも努力をしたではないか?亡くなった江学庆医師もそうだ。彼は仕事に対して非常にまじめで、患者に対してもまじめだった。毎年毎年正月も祝日もいつも手術をしていた。今日彼の娘のメッセージを投稿していた。彼女のパパは自身の時間のすべてを患者にささげた、と。

私自身も数えきれないほど、例えば家に戻って主婦になろうか、などと考えた。この病気が蔓延し始めてから私は一切家に帰らず、夫と共に別の場所に泊まって、子供たちは私の妹が面倒を見ていた。二番目のまだ小さなこどもは私のことを忘れてしまって、ビデオ通話をしても私が母だとわからない様子だった。私はその事にもとても落ち込んだ。2番目の子供はとても大変で、この子は生まれたころすでに5キロあって、私自身も妊娠糖尿病になった。もともとまだ授乳中だったが、このことで断乳した。これを決めた時もつらい気持ちになった。夫は私に「人の一生の中でこのような災禍に巡り合って、しかもきみは単なる参加者ではなく、チームを率いて闘った。これはとても意義があることなんだよ。時間が経ってすべてが元に戻った後、皆でこのことを思い出すとき、きっとこれはとても貴重な経験だったと思えるだろう」といった。

2月21日の朝、私が幹部と話していた時、いくつか聞きたいと思った事があった。たとえばあの時私を叱責した事を間違いだと思わないか?とか。私は謝罪が欲しかった。でも口にだす勇気をどうしても持てなかった。そして、誰も、どのような場でも、私に対して謝罪の言葉を口にすることはなかった。しかし、私は、今回の出来事を通じて、すべての人は自分の独立した思想を持つべきだということが証明されたと思う。立ち上がって本当のことを言う人が必要だ。そうした誰かが必要なのだ。『この世界には多様な声が必要とされている(訳注:李文亮医師の遺言とされている言葉)』そういうことでしょ?

ひとりの武漢人として、自分の故郷の街を愛さないなんていうことはできない。以前の普通すぎる生活を思うと、それがどんな贅沢で幸福なことだったかわかる。私も子供と一緒に遊びに行って滑り台をすべるのを見ること、夫と一緒に映画を見にいくこと、そういった以前は特別でもなんでもなかったことが、今になって幸福だったとわかる。今となっては得ることもできない幸福だったと。

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