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普段書評や感想文をあまり書かないのだが。

物事の特徴を理解する早く効果的な方法のひとつは類似のものとの差を見ることだろう。日本の隣人たる中国社会を多少でも理解する事は、共有するところもありながらその違いの大きさもあり、自らの国、日本社会を理解するための非常に有効なアプローチでありうると思う。

本書は現代中国経済が専門の梶谷懐神戸大学教授と中国のテクノロジー界隈では突出してレベルの高い記事を出し続けているジャーナリスト高口康太氏の共著で、いわゆる「監視社会」について中国で実際に導入されている例を紹介しつつ、その背後にある(現代だけではない)中国社会の構造に迫る…といった内容だ。理論家と実務家がひとつのテーマに取りくむ、という座組も面白い。何しろ大体世間ではこの二種類は水と油で、けなしあっているのが常とされているからだ(外野の勝手な決めつけかもしれないが)。

本書の最終部分が「日本でも起きうる可能性」であることに象徴されるように、内容のほぼすべてが中国の事例でありながら、結局のところ考えさせられるのはやはりこれらの技術が日本にもそろった時に日本社会も同じような使い方を望むか(または、そうするべきなのか)という事だろう。

一般人が実際にその意思決定に直接携わる場面が多いとは言えないだろうが、社会の構成員のひとりとして、こうした難しい問題についてある程度考え、意見を持つ事は望ましい事なのだろう。
自分が暮らす日本の社会がどうであるかなんて、とっかかりもなく考えるのは難しい。でも冒頭に述べたように色々共通点もありながら巨大な怪獣のようになった感のあるお隣さんとの差異を通してなら、少しは客観的に見ることができるかもしれない。そうした意味でこの本は広く読まれるべきであると思う。まあ、そうした難しい事を考えなくても(著者が望む読まれ方ではないかもしれないが)中国ハイテク事例集としても、驚きとともに興味深く読めるだろう。

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僕はここで取り上げられるような同じような「監視社会」が他国に全面的に出現する可能性は現時点では少ないと考えている。それはダイバーシティ(多様性)に対する中国とその他の国との無限ともいえる距離が原因だ。念のため注釈しておくと、ダイバーシティという言葉はしばしば女性の社会進出の文脈でとりあげられるが、中国はこの面に限っては地域差はあるものの不思議と進んでいる。ここで述べているのはもっと根本的な「違いの存在を受け入れる事」だ。

これはP149辺りで引かれている天理の話とひょっとすると同じルーツなのかもしれないが、中国に日々関わる中で思うのは、「どのような問題にも(たとえ現時点で見つかっていなくても)唯一の正解がある(はず/べき)」という観念の強さであり世界観だ。

実際のところ中国は広大な国土と56の民族を持つ、多様さの極致ともいえる国である。現実的に自分と言葉、文化、肌の色が全く違う人たちと隣り合って暮らす事が日常になっている。そうであれば自分と違う考え方や習慣を持った人との接触も多く、それらへの理解(これは必ずしも受容できるかを意味しない–ただ少なくとも、「違う人がいる」事自体は否定はされないだろう)もあると考えるのが自然だ。しかし大都市の一部を除いて、現実を見るとこの面でかなり狭量であるように見えるのはなぜなのか。

本書の射程からはかなり離れてしまうが、これはある一面で中国という国の抱える非常に大きな問題である「中国人とは何か」という統一されたナショナルアイデンティティの未成熟ともリンクする。自明に共有された「標準中国人像」を持たないからこそ、それにこだわり、違うと見做したものを攻撃する。早くそれらを獲得したいからこそ、例えば「中華民族」「中国梦」のような進むべきゴールの提示と同時にそのゴールからあからさまに遠そうな外れ値を排除する事で歩みを早めようとする。

これが、本書でも取り上げられているウイグルで行われている科学技術と思想の大規模で醜いコラボレーションであったり、同性愛者や障害者などのあらゆるマイノリティに対する冷たい視線の正体だ。これは自らと違う信仰を持つ(或いはもたない)人々を「”未”信者」と呼ぶキリスト教の傲慢と通じるものがある。人として当然に生きる権利がある事と、生きる事を誰かから「許可され」て生きる事はまったく違うのだ。

だからそういった事情を共有しない状態の日本は、基本的に少数派を受け入れもしないが、積極的に排除しない事が多いという国民性も相まって、わざわざハイテクノロジーと大変な手間をかけて「監視社会」を築くだろうとは思わないというのが僕の考えだ。

そもそもの正解やゴールに関する統一された意見がないのだから、本書で紹介されるような小道具が整った所でどうしようもない。いつかTwitterで監視カメラについてのツイートをした時にも触れたが、包丁は人間をバラす事にも牛や豚をバラすためにも使えるわけで、道具が同じなら必ず同じ行動を招くというのは些か短絡的だろう。

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もうふたつほど感想めいたことを書いておきたい。

蛇足かもしれないが、あとがきの中で本書のタイトルについて触れられた部分で、「結局のところ『幸福』という言葉が人によっていろいろなイメージを喚起する」と述べられている。おそらく著者はそうした事を意図してはいないと思うが、この言葉は著者自身が「非中国的(或いは非中華人民共和国、なのかもしれないが)な価値観」の持ち主である事を示しているように思えた。これは前述したようなシンプルで単一な価値観が蔓延する世界では起こらない現象だろうと思うからだ。

変わりつつあるとはいえ、中国では「ものを持たない幸せ」といった価値観は長い間受け入れられなかった。金と権力、地位があって家族も自分も健康…といった外形的に観測可能で些か単純すぎるような価値観での「幸せ」のみが幸せとされていたのだ。そうした価値観の社会の中で満たされなさを感じるのは过分(too much)であった。

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もうひとつ。

こうしたハイテクに判断基準をゆだねる事は、神(ひょっとしたらこれも文中に登場する「天」なのかもしれない)を人造している事にも近いと感じる。「社会主義」を標榜する中国に「社会」がないという笑い話を聞いたことがあるが、これは正確には公共(Public)の概念の欠如を指す。
すべてが私有のつぎはぎだから、そこから零れ落ちたものを誰も引き取らない…要するに道路に物を平気でポイ捨てするのは「それをしても怒る所有者がいないから」といったことだ。

であれば、「公共の概念の涵養」といったあいまいで国情に合うかもわからない事を目指すより、より良き社会を作る現実的でてっとり早い方法は「怒る所有者」を創ること、と考える人がいてもおかしくない。願わくばその「怒る所有者」は平等で公平で、漏れがなくポイ捨てする人たちに怒ってほしい。個人や組織がそれをやると監視が聞かず腐敗するならそれは機械に担わせればいい…それは機能で見れば神を創造する事であるといってもいい(日本もまた「お天道様が見ている」を言う国であるという事も面白さを加えるのだが脱線が過ぎるので本稿では触れない)。それはその時の社会情勢に合わせて、例えば「中国特色社会主義」の一部に回収されるのかもしれないが。

ただ、万能の裁定者を頼ってそれに解決してもらおうという態度は、子供同士の喧嘩を先生に仲裁してもらうそれに似て、責任感ある大人の行動ではない。さらに言えばここでいう「子供」は自らが子供で居続けるために自分の技術で「大人」を創り出すのだからさらにいびつであろう。

あるいは宗教も神も否定する共産党による新たな神の創造の試み、と考えるとさらに滑稽なのかもしれない(個人的には常々、共産党もイスラムなりいくつかの宗教のように他宗の神を自分の論理の中に組み込んだほうが賢いと思うのだが…このあたりはまったく違う話になるので割愛)。

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「社会」と群れ(集団)の違いはなんだろう。もちろんその一つは上であげている「公共の有無」であるのだけれど、それと共に僕は群れはあくまで個々の利益が最大化されリスクが最小化される非常にプラクティカルなものであり、社会はそれに加えて一個の群体としての全体の生存の視点を持っていると思う。そう要請されているのか、それとも自然にそうなったのかはわからないが…。

社会というものは必ずしも何かに向けて最適化されたものではない、バッファや無駄が含まれていることが多い。これはひとつには「無駄」を養うことができるサイズの問題もあるだろうけれども、社会の側としてもそうした無駄を温存し冗長な状態を保つことで、例えば外部の環境が大きく変わった時に全員が一気に死ぬ事を避ける工夫があるのではと思う(「社会」という独立した意思は存在しないので、これはどのみち概念的な話ではあるが)。

多数派のみを用い少数派を殺すことは、長い時間軸で見れば環境の変化に対応しきれなくなり、群れ全体を絶滅に追いやる大きなリスクがある。しかし現在の中国で行われている事はそう言った事だ。多様性は短期的には利益はもたらさなくても、中長期的にはリスクヘッジに繋がるというのが「ダイバーシティ」が中国以外で叫ばれ、受け入れられる大きな原因であるにも関わらず。

では、どちらのほうが賢いのだろう?確かに、中国の対話を重視しない、多様性などクソくらえなやり方は意思決定が圧倒的に速い。誰かの「納得感」などというふわっとしたものではなく、経済的利益や譲れない思想的な問題の為に相手を討伐する。自分の行動を常に正当化でき、「愚かな大衆」の意見を聞く必要もない。その魅力に抗い、否定するのはなかなかに難しいことも一方現実ではある。

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そう、量的には「社会」を構成するに十分なはずな中国は、質的にはまだ「大きな群れ」にしか過ぎないのかもしれない。
ただしこれを考える際、これからの地球で本当に「社会」が必須なのかという事も同時に考えなければならないだろう。

歴史的に自然界の弱者である人間は自らを守るために群れを作り、その群れが大きくなるに従い独特の「社会」というものを発明し、群れを社会に作り替えることでさらに自分たちの環境を強固にした。
しかし人間は科学技術等の水準を高めることで最早個体としても強くなり、個々の利益を我慢してまで集まって住む意味がなくなった。だから必要に応じて利益集団としての群れを形成すればいい…そんな考えもまた成立しうる。今の時代において、社会は最早群れの上位互換ではないかもしれないのだ。そのミクロレベルでの表出のひとつが会社から個人へという雇用形態の変化、本書でいう「ギグ・エコノミー」なのかもしれない。

そんなことを考えながら、この本を読んだ。