【追記】日本のイベントでも上映が決まった様子。

傑作だから中国在住者は見るといいよ

つまらない記事タイトルになってしまったが、結局何がいいたいのかといえばこういうことだ。白状しておけば、別に前々から目を付けていたわけではない(元々去年8月公開予定が遅れて12月に公開…だから春節前に終わっちゃう気がする…)。

ひょんなことからなぜか映画を見に行くことになり、そんなに見たい映画もない中で「そういえば例の騒動(後述)の」と思って何気なく選んだのだが、全編泣きっぱなしの気持ち悪い人になってしまったというのが正しい。でもなんせ素材も地味だし、予告編を見てもいまいちピンとこないかも、とも思う。

簡単なストーリー紹介

でもまあ、まずは予告編を見ていただきたい。

広東省の田舎(順徳付近を題材にしたと監督インタビューで語られている)に住む少年阿絹は、両親とも大都会広州に出稼ぎにでてずっと戻らず、内気な性格も相まってよくいじめられていた。村の獅子舞イベントで偶然出会った達人の少女から「キワタの花は英雄の花、あなたはそれに選ばれたのよ」と獅子頭を渡され、広州で開かれる大会に出れば両親に会えるかもしれないと思い、友人たちとチームを組み、元凄腕の舞い手である魚売りのおじさんに特訓を受けるのだが…というかんじだ。

中国アニメの「記号論」

中国アニメというと日本でも公開された「羅小黒戦記」や19年の「哪吒」あたりの評価が高かったことから、中国IPに興味を持つ人から「なんかすごい」と思われがちではある(メインストリームだけを考えても15年の”大圣归来”からのはずだが、なぜか日本人から言及される事は少ない気がするがまあそれはいいとして)。今日とりあげているこの作品も含めレベルが上がっていることは間違いないが、正直若干過大評価されているようにも感じる。

以前別の場所で書いたことがあるが、中国においてこうしたIPを創るときの難しさは、国内の多様さゆえの「共通の記憶(ダサい表現を使えば「お約束」とも言える)」の乏しさ、そしてそれを表す「記号」の単調なつまらなさだ。見た人が同じような気持ちを抱くシーンや風景、登場人物の造形といったものが少なく、それらを求めると結局神話か愛国(または共産党、社会主義)、当たり障りのない社会問題(というと矛盾のようだが)、そして表現レベルでは非常にというか往々にして退屈なまでにベタでストレートなものに落ち着かざるをえない。

実写であれば俳優の力など別のベクトルの要素も加わってくるが、アニメの場合、それが良くも悪くもストレートに出て来るため、画面の表現力がいくら向上しようと、お話としては幼稚でひねりのないものになりがちなのではないかと感じる。

加えて、これはアニメだけでないし他国の映画(というか映画にすら限らないだろうな)にも共通するのかもしれない原因も考えられる。それはいまのようにヒット予測が中途半端にできるようになると、それから外れた作品に投資が集まりにくくなり、責任回避のためもあってキャスティングなのか、原作モノなのか…というところに帰結しがちだという点だ。

実写映画よりはだいぶ遅れて花開きつつあるアニメはこうした全体的な業界の傾向の影響もより受けているのでは、と思う。まあとはいえ映画には深い作品もあるわけで、この仮説もかなりおおざっぱでツッコミの余地があるものであることを否定はしないが。

本作「雄狮少年」もまた、神話ではなく獅子舞という伝統芸能ではあるが、そこに留守児童(親が都会に出稼ぎにいき取り残された子供)という、社会問題としてはすでにちょっと手垢のついた題材を織り交ぜたものという意味では、その枠をなぞっているものといえる。

とはいえ、獅子舞は例えば前述の「哪吒」などに比べれば全中国人民の共通の記憶、といえるほどのものではない。またそれを使えばファンが自動的に集まるほどのコンテンツパワーがあるでもない。日本で歌舞伎をテーマにしたアニメをやったところで成功は難しいだろう(…と思ったら17年にカブキブ!というアニメがあることを発見)。

正直あまりこの方面にくわしくないので調べたものをそのまま書くだけだが、獅子舞には「北獅」「南獅」の2流派があり、この作品で取り上げられているのは広東省の仏山市(広州市の隣)を中心にした南獅のほう、らしい。

ただ主観にはなるが中国人の平均的な理解では「なんとなく南の(≒多くの人にとって中国ではあるが自分の文化ではない)もの」と思っているのではないかと思う。一緒に見た北京人は「当然知っているが、商業施設のちんどんのようなニセモノはともかく本物をみたことはないし、親しみはない」と言っていた(映画自体は非常に楽しんでいたようだが)。日本やその他の国にとってのほうが、ひょっとしたら「旧正月のときチャイナタウンで踊ってる中国のアイコン」として認識されているのかもしれないとさえ思う。

血に飢えたネット愛国者による「釣り目」騒動

チェン・マンがDiorのために撮った作品

こうした「記号論」が逆回転したのが釣り目騒動ともいえるかもしれない。ここ3か月くらいダラダラ続いている愛国青年たちのヒット作で、「西洋人が中国人の真似をするときに目をひっぱって釣り目のポーズをする」ということから、目を細く描く=中国を侮辱している!と手当たり次第に細目を見つけてその都度発狂するという騒ぎだ。

元々外国ブランドをこうした口実で叩くことは散発的に行われてきた(その中には例のドルガバの騒動の様に、実際に悪意や差別的感情があったものも含まれる)が、中国人の作品にまでやり玉にあげられるようになったのは、多分去年11月人気女性カメラマンのチェン・マンが10年前にDiorのために撮った作品が炎上したところからだろう。

続いて三只松鼠という国産の人気スナックブランドが19年10月に撮った作品もおなじような理由で叩かれてよく燃えた。その次がこの「雄狮少年」というわけだ。主人公はいわゆるいじめられっ子ではあるが、別に西洋人から釣り目を理由にいじめられているわけでもなんでもない。

確かに釣り目ではあるが…

ただしキャラクターたちが必要以上に幼く描かれている(一応大学進学を前にした18歳だったはずだが、いいとこ中学生に見えるし、行動も幼い)のはちょっとなあ、と思った。正直(完全に個人の好みだが)人物のデザインはあまり好きではない。それは巷間指摘されているような「かっこよくないから」ではない。

また田舎の描写として売店で小銭を払って有線の電話を使わせてもらったりしていて、とても現代とは思えないのもちょっと演出過剰気味ではある。実際途中で地下鉄の駅が出てくるまでは、20年くらい前が舞台だと思っていた(最初の5分くらい欠けているので、ひょっとしたら冒頭に説明があったかもしれないが)。いま思い返してみてもスマホとインターネットがほぼ出てこないのは、ひょっとしたら意図的なものなのかもしれない。

で、なんでこの映画をいいと思うのか

この映画をなぜ自分は優れていると感じたのか。具体的に考えていくと、実は言葉にするのが難しい。SFや伝奇といった題材でもないので派手な演出が難しい(むしろ獅子舞なんか素材としては「ダサい」だろう)、人気の原作もない、上述したようにタレントパワーに頼るわけにもいかない。そうした…まあ簡単に言ってしまえば総じて「地味」な作品であるにも関わらず、しっかり2時間のお話を作り込んでいる、という基礎力の高さがまずは根本だといえる。

またこの作品は別に獅子舞がどういうものか知らなくても楽しむことができる。キャラクター造形や細かいエピソードに手垢のついた「お約束」は盛り込まれているものの、ストーリー自体は王道ではあるがユニークなものだ。哪吒は様々な面ですごいと感じたものの、自分の感想ツイートでも書いているようにストーリーとギャグが幼稚だったこととどうしても対比して考えてしまう。

獅子舞という行為や様子自体はおそらく外国人でもなんとなく知っている人は多い。また話の筋はとても普遍的で、努力と友情、そして最後のシーンに象徴されるように、あくまで「越えられないものを越える」自分との闘いであり、運命との闘いである、ということなのだろう。

いじめられっ子の成長物語というと、力をつけて復讐、あるいは見返すという方向に話が流れたりするものだが、そうなっていないのもよい。そしてそれらは外国人でも充分共感できるものだ。日本公開しないかなー(大きく売れることは難しいだろうけど)。その点でも哪吒は作品としては楽しめたが、中国外では公開はされたが在外華人以外ほとんど見ていないはず。

別にアニメじゃなくてもよかったのでは?ということも思いはしたが、別に実写で出来ることは全部実写でやらなければならないというわけでもないはずだ。

こうした田舎の風景のカットの描写が好き

映像も美しい。ただ監督も言っているように「いまやレンダリング技術の向上により、写真そのままの風景を描く事自体はそこまで難しくない」のも事実で、写実的であることだけでは美しさには直結しない。そこにどうアニメらしい味付けをするかのほうが難しいだろう。

とくに田舎の風景として出て来る木や植物、あるいは物語の核心的なアイテムである獅子についた飾りの色や動きは非常に印象的だった。ただ人物がなー。

広東語は?

そもそも物語の主な舞台である広東省の田舎は一般的にいって普通話より広東語が使われる地域だ。そして劇中歌の多くは広東語でもある。しかし劇中は謎に一人だけ(しかもモブキャラ)広東語混じりの南方普通話を話すキャラクターが出て来ることを除けば、それ以外は基本的に全員きれいな普通話を話す。

これはちょっと不自然にも感じるし、元々広東語でつくればよかったのに、とは思った…らどうやら同じようなことを思った人が多かったのか、元旦以降一部地域では広東語バージョンも追加で公開されているようだ。どこかで見れないかなあ…。

ちなみに老師は正確には魚ではなく咸鱼(干した塩漬けの魚)を売っているのだが、これは成語の「咸鱼翻生(咸鱼翻身とも書くが、同音でしかも書き字が厳密ではない広東語由来なので適当。一度栄光を手にした人が落ちぶれるが、何かのきっかけで再起すること)」から来ており、若いころに舞い手として活躍した老師の過去と現在を示している。

監督はチャウシンチーが好きだと言っていて、彼が監督した「燃えよデブゴン」の原題はまさに咸鱼翻生だった…というあたりからも来ているのかもしれない。

咸鱼翻生!な老師と奥さんの関係もよい

ここからは完全に中国語コーナー。こちらに(アニメではない)仏山の獅子舞チームが大会に臨むまでの短いドキュメンタリーがアップされていたので、リンクを貼っておく。

また、映画の紹介記事の中で獅子舞の先生に実際の状況を聞いたり、留守児童の状況についてきちんと調べているいい記事を見つけたので、おまけでリンクを貼っておく。やっぱ稼げないのね…。僕が広州に住んでいた時には春節が近づくと、近所の子供たちが練習していた太鼓の音で起こされたりしていたので、懐かしいです。

そして最後に、豆瓣の批評で非常によいと思った記事も紹介しておこう。最後の一言には、本当にハッとさせられた(ちょっと長いけど)。