元新京報の社長、戴自更が身柄を拘束されたというニュースが香港メディアから出始めている。メディアは巨大国営産業でもあり、様々な利権が絡むため元々不透明な事が多いといわれる。TV関係は特に最近多く、湖南卫视の副台長が4月に身柄を拘束されているし、 江西省に至っては去年6月から今年4月までの10ヶ月で7人もの「落馬」者がでている(中国語で落馬は逮捕・身柄拘束などの意)。

とはいえ新聞だけで考えると最近はそこまで目立つ案件は見かけなかった(投下既に腐敗するほどの権威すらない、といった所だ)…とおもったら報じられたのがが戴自更の拘束だ。彼は単なる数多いるメディア企業の経営者ではなく、彼が作り上げた新聞「新京報」とともに別格の存在とみられていた。 彼は03年に新京報を立ち上げ、そして17年に突然辞任した。有名人だったわりには引き際がよくわからず、しかもそれをいち早く報じた記事が削除の憂き目にあうなど、当時から不穏な雰囲気ではあった(参考「ひとつの時代の終わりを告げる新京報社長 戴自更の離職」)。

新京報は彼によって作られ、そしてある意味でメディアへの圧力と圧倒的速度で普及するSNSに新聞が食いつくされる前の最後の輝きをつくりあげ、そして彼の在任中に力を失っていった。新京報が業界内でどのようにみられていたかは、下記の投稿がわかりやすいだろう。

中国で意義のあるメディアと呼べるのは3社しかない。北では新京報が地方公権に関する報道を行い真相を伝え、南には南方週末があり民主改革自由を高く掲げ、庙堂には財新がいて権勢に厳しい鞭を当てた。ニュースというものの根源的な価値から言って、民主、法治、人道、常識を持ち、政府権力を監視・制限する事こそがニュース人たるものの本分と役割である。新京報は新聞、南方週末は週刊、財新は新しい形のメディアの喉舌である。コンテンツとしての価値はどれも同じように優れている。ただ発行形態がそれぞれに違うだけだ。

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今日取り上げるのは、そんな戴と新京報のたどった足跡を紹介する記事だ。個人のライターが書いたものを業界内でよく読まれているアカウントが転載した形だが、確かによくまとまっていると感じる。あわせて、戴が辞任した際の文章では都市報の歴史なども紹介されているので、よかったらあわせて読んでみてほしい。 水も流れず溜まれば濁るのが必然、文中にも出てくるが元々色々微妙な業界においてこれだけの長期政権を築けば叩けば埃が出るのは当然と言ってもよい。問題は、なぜ、このタイミングで彼が取り締まりを受けたのか、ということだ。それがわかることなど、ないのかもしれないが。

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戴自更、伝統メディア最後の大物が斃れる時

出典:戴自更,最后一个传统媒体大佬的倒下 (2019/06/12 传媒头条)

新京報の元社長戴自更が最近調査を受けている。彼はひょっとしたら伝統メディア界の最後の大物という事になるかもしれない。今となっては新聞などというものは誰も読まないし、その新聞社の経営者が誰かといったこともほとんど関心を引かなくなってしまったのだから。 80年代の思想の影響を強く受けた戴自更は、常に長髪を貫いた。

中国伝統メディア業界において、戴自更は大物だった。 彼が新京報を15年にわたって経営したことはある種の奇跡と言っていいだろう。なぜなら伝統メディアの経営者のクビは本のページをめくる速度より速く変わっていくからだ。1つの記事、1つのタイトル、そして1つの誤字ですら、そのキャリアを終わらせる可能性があった。

中国の重要メディアの経営者は必ず業務、社会事情、人心、そして政治を知悉している必要がある。そして最後のひとつが最も重要だ。 新京報は北京という主要地域の都市報において注目度が非常に高く、多くの「眼」が動向を注視していた。特に老同志たちだ。これは諸刃の剣で、新聞で述べられたことは大きな影響力を持つ一方、適当な事を書くわけにはいかない。新京報が今日の地位を築くうえで、戴のこの方面の抜きんでたバランス感覚の功績は大きかった。

戴自更,浙江省宁海出。高考の成績は非常に優秀で、しかし故郷から近い復旦大学には進学せず、より遠くへということで北京にある中国人民大学に入学した。大学生のころ、戴は非常に勉強熱心で人柄も純朴、学生たちの模範と言われた。当時、教師たちは「戴のいるあのクラス」を「中文八一班」と呼んでいた。 1981年に入学してすぐ、女子バレーの世界大会で中国が勝利した。戴と同級生たちは天安門に繰り出し「振兴中华」といったスローガンを叫んで回った。

激情を燃やし尽くした前世紀の80年代、戴は大学院に進学し、その後就職した。80年代という時代は、戴の心の最も深い場所を後の基調となる色に染め上げたのだろう。彼の数十年変わらない髪型も、ひょっとしたらその時代へのオマージュだったのかもしれない。時が経って新京報の時代にも、その報道にはあの時代への国家というものへの理想と思いが満ち溢れていた。

1988年、大学院生だった戴自更は光明日報に入社した。光明日報は共産党中央の直属であり、中央宣伝部が代理で管理するいわゆる中央級の党報だ。1978年5月11日、光明日報の特約評論員の名で発表された「实践是检验真理的唯一标准(実践は真理を検証する唯一の規準である)」は、それまでの「两个凡是(ふたつのすべて※)」を批判し、全国で「実践は真理を検証する唯一の規準である」という議論を巻き起こし、思想解放を推し進め、实事求是(実際の状況に基づいて事物の真実を求める)の路線に重大な影響を与えた。光明日報は、輝かしい新聞だった。

※訳注:两个凡是(「ふたつのすべて」)については日本語版wikipediaに詳しい。冒頭から一部引用すると「毛沢東の死後、権力を受け継いだ華国鋒が提唱した政治標語であり、「すべての毛主席の決定は断固守らねばならず、すべての毛主席の指示には忠実に従わなければならない」というものである」。 記事の後半にもあるが、「实践是检验真理的唯一标准」はこの毛沢東絶対主義的な「ふたつのすべて」を否定するために鄧小平によって担ぎ出された理論といえる。光明日報は党主流新聞であったが(またはあったが故に)その影響力によって政争の舞台とされたということになる。

1978年5月11日「实践是检验真理的唯一标准」を掲載した光明日報

光明日報において、戴はデスク、そして江蘇省と新疆の支局記者を務めた。1992年、戴は広州支局に派遣され、記者から支局長に、そして2002年には北京本社に帰り副局級にあたる光明日報直属の新聞社の工作部主任となった。広東省に駐在した10年の間、戴は南方週末と南方都市報の成長を目の当たりにし、南方のニュース報道への理念から大きな影響を受けた。広州に住んでいる時、戴は南方都市報を購読していた。当時の南方都市報は舌鋒鋭く同時に現実の生活にも近く、報道の内容、角度、立場や使われる言葉は戴をよくうならせた。彼はこれこそが新聞というものである、と考えていた。

2003年という都市は中国伝統メディアの発展史において特別な年だった。この年、CCTVのニュースチャンネルが放送開始され、東方早報、瞭望東方周刊と新京報が相次いで創立した。16年の時を経て、飛ぶ鳥を落とす勢いだった東方早報は澎湃(訳注:14年開始のオンラインニュースサイト。17年に東方早報が廃刊になり、編集チームは澎湃に移ったといわれる)へと姿を変え、CCTVのニュースチャネルと瞭望東方周刊は往時の勢いはなく、新京報だけが唯一まだ瀬戸際に立ち、報道において気勢を上げている。

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2003年,戴は40歳になっていた。彼はこの年新しい新聞を創刊するという任務を背負っていた。彼は当初全国を探し回り浙江、福建、贵州の経営者と協議した。経営者たちは金を出すことに関してケチではなく、例えば浙江省横店の経営者はいきなり最初に5000万元だそう以後も必要ならば追加する、といったりもした。しかし利益の分配方法をめぐって合意に至る事は出来なかった。戴はそうしてこうした経営者たちに経営を任せては新しい新聞は死を迎える結末以外にないと悟った。

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2003年6月26日、戴は広州大道289号に足を踏み入れた。ここは南方系の大本営だ。 その時、戴は新聞の方針についてそこまで確固たる考えは持っていなかった。もし1億元調達できれば日刊新聞を、もし数千万しかないようならば専門誌を、といった程度だ。 だから、彼はまず南方メディアグループの21世紀経済報道を訪ねた。

しかし沈灏(訳注:21世紀経済報道の創始者、15年に紙面を使った企業相手の恐喝で起訴され服役中。ターゲットにした企業のネガティブ記事を書かない代わりに高額の広告料を脅し取っていた。元々ジャーナリズムで有名だった南方系の企業で起きた典型的な記者の腐敗案件としてよく知られる)はそこまで興味を持たなかった。

沈のオフィスから出てきたとき、戴は旧知の中国青年報の林炜に出くわした。林は南方都市報との協業を戴にアドバイスした。 戴は南方都市報の執行総編集長だった程益中(訳注:05年ユネスコより世界自由報道賞を受賞するなど評価が高く「最後のウォッチドッグ(権力を監視する番犬)」と言われた。福島香織さんの「中国のマスゴミ」にも取り上げられているが03年末SAR再発時に南方都市報が報道管制を破って報じた結果逮捕されるなどされた。後に香港でスマホメーカー乐视LeEchoのスポーツ部門の要職に行った辺りに、中国国内でのジャーナリストの行き場のなさが現れていると思う)に電話をかけたが当日程は広州におらず、部下である喻华锋と打ち合わせを指示した。喻华锋は当時は南方都市報の総経理で、後に「南方都市報事案(上述の報道管制破り)」によって数年拘束された後に、「本来生活」というメディアを自ら立ち上げた(訳注:文中では省略されているが、南方都市報から本来生活までの間に新京報、网易副総裁などを間に挟んでいる)。

南方都市報はまさにその頃広東省外で新聞発行を考えており、上海商報と交渉を進めていた。なのでもし北京で発行できるという事であれば、それもまた非常に魅力的な選択だった。

戴自更は政治的な部分に鼻が利く以外に、コミュニケーション能力にも大変秀でていた。そして喻华峰が人民大学卒の後輩であったということもあり、初めての交渉は非常に大きな成果をもたらした。この時は光明日報が出資できるのか、そしてできるとしたらいくら投資できるかという事が焦点になった。

戴は最終的に光明日報の総編集長袁志发の説得に成功した。彼は一か月分の南方都市報を背負って北京に持ち帰ったところ光明日報のスタッフはそれを見て驚いた。1日に数十から百もの版面を発行する新聞など、北京にはなかったからだ。

これは中国で初めての二つの党報メディアグループをまたいだ共同での新聞創刊であり、初めてのエリアをまたいで経営される新聞であるということで、発行までの審査や手続きは非常に多かった。最終的には中央の主管部門のトップがOKをだし、ようやくこの新しい新聞は「出生証明書」を得ることができた。

この新しい新聞のネーミングについてもエピソードがある。当初北京时报という名前を考えたものの、関係部門の役人にちょっかいをだされ、結局駄目だった。次に邵飘萍(革命烈士の1人、1918年に《京报》を創刊した業界の有名人)へのオマージュということで京报と名付けようとしたが、今度は北京日报が不服を申し立てた。「君らは京报と名乗るなら我々は何といえばいいんだ」というわけだ。最後には結局一番最初に「新」という字をつけることで決着した、というわけだ。ネット上にはこの新聞が満州国の首都とされた「新京」が名前の由来だというバカげた事をいう人もいるが、無知というほかない。

新聞の黄金時代において、新京報は用いる人材の形にこだわらず、様々な業界から才ある人材が次々に集まった。南方都市報も多くの編集、経営、管理関係のコアメンバーを北京に送り込んだ。程益中、戴自更、杨斌、王跃春などの経営層の指導の元、新京報は次第に中国メディアの代表になっていった。

後になって、メディア監督の環境の変化と新メディアの猛攻によって伝統メディアは落ち込み、優秀な人材もまた三々五々に野に散っていった。しかしその時代鳥たちが舞った痕跡は、今でも天空に残されている。

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新聞社の経営者は非常にリスクが高い職位だ。ここ最近、捜査を受け拘束される例も多く、辞職させられる例もさらに多い。広州には3つの新聞社グループがあり、この20年にわたって社長、総編集といった立場の人々が辞職に追い込まれてきた。 メディアはイデオロギー領域に属し、政治的な素質への要求も非常に高い。しかしメディアは企業体として利益を上げる必要があり、経営者は常に収益について頭を悩ませることになる。

このふたつはしょっちゅう衝突し、多くの経営者が「落馬」する原因ともなった。広東省のもうひとつの一級都市である深圳のメディアは反対に平和なもので、特区の人々は経済にばかり関心を持っていて、新聞に対する興味はとても少ない。

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戴自更の身に何が起こったか、そしてそれは新京報社長時代なのかそれとも辞職後の北京文投の総経理時代が原因なのか、それすら今の時点でははっきりしない。

しかし去年9月、北京市委巡视组が北京日报社の党組織、及び新京報の党委員会に巡視の状況を報告し、社内の党委員会の習近平新時代中国特色社会主義思想の徹底的学習と十九大精神の学習の程度が浅く、「学懂弄通做实(「深く学び、理解し、実践する」とでも訳せばいいのだろうか)」,イデオロギーに関する仕事の伴う責任への理解が足りず、責任をもって仕事を進めるためのルール作りも不足しており、紀律執行も厳格ではないという状況が紙面から透けて見えると批判した。同時に、党委員会の求心力が弱く自らの仕事を手放すことを恐れ、しかも大量の資金が使途不明で、党組織のベースがきちんとできておらず、党員への教育管理も不足しており、党委員会は主体的に責任を取っておらず、紀律委員会も同様、日常的な仕事上での監督においてもヌケ漏れが多く、公費での旅行や軽の濫用、精算も適当でその審査のフローも問題があった。

巡視報告の中では新京報の報道自体に問題があるとはされなかったが、最も重要な問題はその経営体制にあるとされた。 新京報は疑う余地ののない優れた新聞だ。その報道は社会の進歩を多く助け、多くの人々の運命を変えた。

そして最後には、戴自更その人の運命をも、変える事になった。