現在は金沢大学で教鞭をとられているらしい工藤文による博士論文をもとにした『中国の新聞管理制度』についてちょっと触れてみよう(旧Twitterだけでもいい気もしたが、字数が…)。

(何年もかけて書かれただろう論文に対して素人が斜め読みで言うことか、と思われるかも知れないが)結論から言って、この本に関しては「問いの設定の筋があまりよろしくないために、その後の答えの意味があまりなくなってしまっている」というのが大まかな読書感想文となる。

本書の問いはオビにあるように「市場経済が進んだ中国で、なぜ商業紙は政府や共産党を支持し続けるのか。検閲だけでは説明できない、複雑な仕組みを解き明かす」または冒頭の「なぜ中国では、メディアの自由化が進まないのか」となろう。ただ中国のメディアに少しでも関わっていれば商業紙が党・政府のコントロールを受ける報業集団の一部であることは知っている。進んだのは商業化であり、経営権の民営化ではないのだから(指摘されているように、過去の一時期民間資本の参入が許容されていた時期もあったようだが)、それに伴う自由化ももちろん進むわけがない。何か自分が想定していなかった切り口があるのかと思ったが、残念ながらそうしたものは見られなかった。後半の「複雑な仕組み」については整理に一定の意義を感じるが、それだけでは食い足りない。そもそもこのトピックに興味を持つ人が検閲だけで管理していると思うことがあるのだろうか?。

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冒頭(P3)で触れられているように、過去の研究では(現在とあまりにも違う政治環境ゆえ)政府からの支援が減って財政的な独立性を高めたメディアが政府に批判的なものいいができるようになるかもしれないという、現在からすれば夢のような未来絵図なり願望なりを元にした研究はありえたのかもしれない。だがそれは経済発展の結果として民主化が訪れるに違いないという素朴な発想から生まれたアメリカの関与政策と同根であり、ニクソン期から始まったそれは少なくともトランプ政権で終わっている。党の管理の強化と伝統メディアの収益能力の崩壊が大きく進んだ今まだこの議論をすることに、どうしても意義を見いだせないというのが正直なところだ(それは博論として世に出された2020年でも変わらない)。現在と断絶した「近代研究」として行うならばいいのかもしれないが…。

軽重はあるにせよ、中国における伝統メディアは党および政府の宣伝のために存在する広報誌だ。前もどこかで書いた気がするが、自民党の「自由民主」や日本共産党の「赤旗」が自民党・共産党批判を行わないのは彼らが牙を抜かれているからではなく、そもそもそういう役割ではないからだというだけの話ではないのか。「自由民主」の編集者は、仮に広告をとれるようになったら自民党の政策を公然と批判するようになると思うのか?ということだ。それが身も蓋もない「なぜ支持し続けるのか」への答えであり、もしそれでもその問いを立てるのであれば、そのいわば「常識」をひっくり返す答えを用意すべきだろう(少なくとも私はそれを不可能だと思っているからこそ「問いが悪い」と述べている)。

だからこそ中国における報道機関の権力との戦いかたは「体制内で生存空間をなんとか広げる」であり、「体制から抜け出る」であったことなど少なくとも改革開放後にはない。何度か取り上げている高口康太の「ルールを守った専制政治を!日本メディアが誤読している南方週末事件の本当の“面白さ”」が一番わかりやすい例と言えるし、さらにかたい例にはなるが、1985年に中央宣伝部長だった朱厚泽による”三宽(「自分と異なる思想や視点に対する寛容(宽容)、同志に対する広い心(宽厚)、空気や環境にたいするゆとり(宽松)をもったらどうか」)”発言など、党・政府側がある程度報道の自由を許容しようとした時期もある(朱は結局その後の発言で早々に立場を追われることになったので、これが全体を代表するものとはいえないが)。それらの複雑性を飛び越えて、著者は何を想定していたのだろう。

差し出がましいようだが、主管・主辯制度だけでなく、ちらりとは出てくる属地管理と例えばそれに対抗するために生まれた異地監督がどのように生まれ、潰されたか(これも「生存空間」の話だ)など、制度内外でのせめぎあいと綱引きの整理にすればもう少し答えとして成立していたのでは?と感じる。著者自身が毛利先生の発言として触れているように「中国の制度はわからないようにできている(P189)」のだから、それをときほぐして整理することに意義はあるだろう。

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またこれは主観が入るのかも知れないが、全体を通して非常に読みにくい。問題は2つに分類でき、キーワードの定義のユルさと編集の怠惰だ。前者について、たとえば上記問いの部分で触れた「自由化」が何を指すのかもじつはよくわからない。おそらく党・政府の影響力からの独立性を自由という言葉にこめていると想像するが、冒頭のいわば宣言部分であるにも関わらず、とくに説明がない。その直後に中国という国家の政治制度としての「自由化・民主化」に話は流れるが、おそらくここでの自由化は「(国家体制の)民主化」の添え物であり、あまり特別な意味はなさそうだ(無理やり解釈するならば自由主義陣営入りを指しているんだろうけれども)。

同じように、中盤(P70あたり)で問題意識としてでてくるメディアの「所有」や「管理」など他のキーワードとされるような言葉の扱いもゆるい。たとえばP59に「新聞の所有者は誰か」という見出しで「中国における新聞の所有が管理、資本、ライセンス、イデオロギーという4つの層から成る」と述べ、続いて前記4点について考察して「所有者を1つの主体に絞ることは極めて困難(P61)」と結論付けている。しかし10ページほど進むと今度は「主管・主辯制度は党が新聞の所有を独占するための制度(P72)」「党・政府機関が新聞所有を独占(P73)」という記述が見られる。どちらなのだろう?

これはもうひとつの問題とも連結する。正直根本的な問題は著者がこうした概念を整理できていないことだと感じるが、それにしても編集者はおそらくほぼ何も手を入れていないだろう。たとえば下記のような文章がある。

さらに、主管・主辯制度は、主管単位と主辯単位、および新聞社の主従関係を規定している。主管単位と主辯単位の関係を見ると、主管単位が主辯単位の上級機関として位置づけられている。主管単位は主辯単位を指導し、主辯単位は新聞社を管理する(P71)

代名詞を使いたがらないのはおそらく著者のクセなのだと思うが、非常にかったるいと感じないだろうか。「さらにこの制度は、主管単位を主辯単位を指導する上級機関と位置づけ、主辯単位は新聞社を管理すると規定している」で意味は変わらず半分にできる(113→53字)。ちゃんとした編集者がみれば、さらに短くできるだろう。もちろん博論という下敷きがあるし、別に作家でもライターでもないのは確かとはいえ、全編こんな雰囲気で進まれると内容が頭に入ってこない。ご本人にその意識がなかったとしても、公に出版するのであれば編集側がカバーすべき事柄だろう。いろいろな事情や慣習はあろうが、結果がこれでは何の言い訳にもならない。以前『中国共産党とメディアの権力関係(王冰2018)』についても「日本語を含めて校閲不足」と書いたことがあるが、あちらはそれでも外国人が日本語で書いたものであることも事実だ(日本語で論文を書いて学位を取るのならば外国人であろうと同様の基準で判断されるべきというのが本筋だとは思うが)。さらにいえば類書『中国のメディア統制』は外国人著者であるにも関わらず日本語もしっかりしている(記事にはしていないが、以前Twitterに大まかな感想は書いた。こちらはとてもいい本)。版元は本書と同じ勁草書房であることを考えれば編集サイドというよりおそらく著者本人の意識に加え周りのサポートがあったのだろう。

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『中国共産党とメディアの権力関係』は2013年の博論を18年に出版したもので、18年時点ですらすでに「考古学」になってしまったと書いた。時事性のあるトピックに対し出版まで4年半かかるのがどうなのかということも感じるが、その間に時代の大きな転換点があったという意味では不運だともいえる。しかし本書については2020年、すでに習近平政権の影響によってすべてが変わった後に書かれた論文だ。そしてその方向は24年現在でも変わっていない。にも関わらずあとがきでの18年以降の変化について「党機関紙のソーシャルメディア化は政府の情報公開を促す役割を持つ」などと書かれているところを見ると、いまだに新聞による政府の監督機能が中国で作用するという考えなのだろうか。微博ジャーナリズムなどといわれていた2011年ごろで時間が止まっていると感じる…その時代でさえ「党機関紙」が「政府の情報公開を促す」ことなどなかったと記憶しているが。