というわけで、西谷格「一九八四+四〇 ウイグル潜行(小学館)」を読んだ。この本を開くことが、実はちょっと怖かった…というと少し大げさかもしれないが、とにかくちょっとした抵抗があったことは先に書いておきたい。それは、企画段階から彼の考えを聞いていたからだ。あ、先に述べておくとこれはもちろん書評とかそんなものではない。ちょっとした感想文にしかすぎない。
いい本を読んで急に「あれはおれが」等と言いたくなったわけではない。むしろ僕は「実際に現地に長期滞在して云々」と語る彼を、どちらかというと止めた立場だ。
正確になんと言ったかまで記憶しているわけではないが、大体の意味合いとしては以下のような話をした気がする。ウイグルの問題はあまりに政治ゲームの駒として扱われすぎ、本人がどんな公平で立派な考え方や眼差しを持っていても、双方ともそんな事にまったく気づきもせず気にもとめずに、西谷さんの本(なりなにかのアウトプット)を、そして西谷さん自身を自分の主張のために利用しようとするし、結果として一番の弱者=個人でしかないあなたは大きな損害を被る。中国にも入国できなくなり、もう一生会えない友人もでてくるだろう。自分がもしウイグルになにかしらの離れがたき縁があり、そのためになにかを捨てる覚悟ができているならば止めはしないが、あなたは普通の日本人であり、言いたいことややりたいことは最低限の損を回避したうえで決断するべきであり、リスクの大きさからしてそれは恥でもなんでもない、といった。
基本的に僕の考えはさして変わっていない。彼が考えを変えると思って言ったわけではないが、その意味でこの素晴らしい作品の誕生を手放しに喜んでいるわけでもない、というのが率直な気持ちだ。
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ただしこの「ウイグル問題」に関してここ数年で大きく変わったことがある。それは明らかな関心と認知の低下だ。元々外部から隔絶された地域で外国人が入り込むには不都合、歴史的事情も込み入っており、ちょっとした旅行程度ではわかりにくかったところが、明らかな問題だった強制収容所はなくなり、監視や弾圧のシステムは完璧になりすぎて、もはや外部から短期間訪れただけではなにもわからない。「叩くための材料」すらもはや見つけられないのだ。そしてメディアの習性として、わかりやすい切り口がなければ報道としては成り立たない。たしかこの回でTBSの立山さんがおっしゃっていたように「今日も北京は平和でした」ではだめなのだ。
そして長期的には立派な文化に対するジェノサイド(学術的定義として正しいかは置いとくとして)が行われていることは事実でありながら、ガザ(あるいは露ウの前線でもよいが)で起こっているのはよりもごたらしい物理的な虐殺なわけで、いまウイグルの問題は政治的な棍棒としても威力が薄い。死んだのが一人だろうが百万人だろうが当事者にとっては同じ悲劇なのだが、彼らにとっては「そういうことではない」のだ。枠は有限であり、相対的に非日常的なものから取り上げられていく。
だからこのタイミングでの出版は、あるいはある種ダメージが最も薄い瞬間だと言えなくもないのかもしれない。これも随分皮肉な言い方になってしまうが、もし五年前にこれが出ていたら、ということだ。注目とリスクの大きさは、本当に残念ながらつよい因果関係がある。友人として西谷さんが面倒なことに巻き込まれるのを見たくない(触れられているように、すでに巻き込まれているが)いっぽう、とてもよい本であり、広く読まれてほしい気持ちもある。まあでもあえて偉そうなことを書けば、これは必要な人がきちんと読み、その範囲内にとどまるのが最も幸せなのかもしれない。本の中でも繰り返し著者の葛藤が記されており、そうしたことを隠さないことが西谷さんのよいところだ。でもだからこそ、読んでいる方も様々なことを考えさせられ、決してすっきりした読後感をえられるわけではない。ちょうど今日は別件でも色々中国にげんなりさせられたこともあり、読んでしばらくはかなり憂鬱になった…いや褒めてるんですよ。
ネタバレがどうのということでもないが、内容について細かく触れることはやめておこうと思う。ああ僕が18年に聞いた60秒の話は、陳全国の抜き打ち通報54秒話が元ネタだったんだなと知ったほか、自分の(もちろん内容面で彼には及ぶべくもない)体験や感触とも合致する内容が多かった、といえば十分だろうか。そして読んでいて最も重いと感じた中盤のホテルでの女性との会話、民族としてのアイデンティティの部分が本書の結びに再び現れたことにちょっとしたしてやったり感(といっていいのか?)をおぼえたことも、記録しておきたい。
新型コロナもあり、また予想以上に監視システム(デジタル的な意味だけでなく住人たちを屈服させ口をつぐませることも含む)の構築が早く進んだこともあり、自分が予想していた「北京冬季五輪の裏番組としてウイグルで大規模な騒乱が起こる」は外れた。以前僕自身もカシュガルを訪れた際のことを記事にしているわけだが、その末尾に自分で書いたように、そろそろ現地を再び訪れてその変化を見て、考えるべきなのかもしれない。
※一点だけ、帯というかサブタイトル?の「(略)ルポライターの笑えない末路」は止めてくれ、それでは最後に死んでしまうみたいじゃないか(ネタバレ


