当サイトでも何度か取り上げているように、(少なくともここ数年の)中国のジャーナリズムを語るうえで「財新」という雑誌、そしてその現在は社長である胡舒立(フー・シューリー)は欠かせない存在だ。彼女はアメリカのジャーナリズム史で例えるなら新聞におけるボブ・ウッドワードやテレビにおけるダン・ラザー、ウォルター・クロンカイトのような存在…というと言い過ぎかもしれないが、少なくともある種のアイコンであるという事に異論をはさむ人はほとんどいないだろう。

しかし胡はすでに65歳、中国の女性の一般的な引退の年齢をはるかに超え、一応は社長という中国においてはよく職掌の分からないポジションに引っ込んでいるものの、それでも誰しもが「財新は胡の会社」だと信じて疑わない。
それは彼女が偉大であるという証左のひとつでもあるが、同時に後進をうまく育てられず、財新を独立した組織にできなかったという事をも意味する。カリスマ創業者の後継問題というのは洋の東西を問わず頭痛の種なのだ(本稿では触れないが、向こう5~10年で中国企業の怪物的創業者たちが引退し始めるはずで、彼らがそれぞれどう動き、自分の権力の継承に成功あるいは失敗するかは非常に興味深い)。

これも機会があったら整理してとりあげようと思っているが、そうした事も影響してか、実はいま、財新は思いのほか厳しい状況に立たされている。そもそもここ1年で考えると、大きなスクープを飛ばしていない。おそらく最後は海南航空の件だろう。
胡は財新を現状よりももっとジャーナリスティックな攻めの組織にしたい意向のようで、ここ数か月で収益の柱であったはずのライフスタイル等いくつかのノンコア部門閉鎖を伴う大きなリストラが進められている。そしてその中で、自らが過去行った事へのまるで意趣返しのように古参の幹部が社員を連れて脱退し新媒体を設立するといった事件も起こっている。

これらはすべて相互に関係しており、また当然雑誌媒体の収入面での苦境といった環境もまた大きく影響している。65歳の胡はおそらく自分に残されたあと数年の時間の中でこの組織を最終的にどうしたいのか考えながら、様々な改革を行っているのだろう。「財新」は10年後もいまの輝きを保てるのか、もしくは「00年代に一時注目を浴びた中国雑誌ジャーナリズム最後の仇花」で終わるのか。

今回の記事はそんな胡舒立と財新の歴史をコンパクトにまとめた記事だ。これからどうなっていくのかはわからないが、背景知識として頭に入れておく分には、邪魔にはならないだろう。

胡舒立:私の一生の夢は、素晴らしいメディアでいち記者として働くこと(翻訳)。

出典:逐梦40年,致敬20人|胡舒立:激进改革,敢为人先的新闻“女教父”(蓝鲸传媒 18/12/18)

記者から編集長へ。
それはただ、メディアをより良くするためだけに。

「私の一生の夢は、素晴らしいメディアでいち記者として働くこと。いい編集者がいなかったので、私は編集者をやる事になった。いい編集長がいなかったので、私は編集長をやる事になった。満足できる媒体がなかったから、私は「財経」を作る事になった」 ——胡舒立

これは、 財新を作る前の時代の胡の人生の総括にも聞こえる。

胡舒立 は1953年に北京に生まれた。 祖籍は浙江省上虞区丰惠镇だ。 祖父胡仲持は高名な翻訳家で、申报(訳注:近代中国において強い影響力を持っていた新聞)の編集者でもあった。祖父の兄胡愈之は全人代の常務委員会副委員長であり、中国ニュース出版業界の開拓者でもあった(訳注:抗日戦争に功があり、光明日报の総編集長なども務め、国内外で数えきれない雑誌を創刊し…と百度百科の記事を見るだけで非常に面白い)。胡の母もまた、工人日報の高級編集だった。

胡は1978年に人民大学のニュース専攻に合格、大学卒業後に工人日報に入社し、主に調査報道を行った。胡が1985年に書いた河北省の華北油田に関する内幕報道は非常に話題になった。

1992年、 胡舒立は党報に別れを告げる。 10年にわたって務めた工人日報を離職し、中国初めての民営新聞「中華工商時報」の国際部主任になる。この経済に対して発言できる場所で、彼女は中国財経記者の第一人者になった。この期間に彼女はのちの事業の核心となるような人脈、高西庆、王波明などと巡り合うことになった。

11年で行われた2つのこと。「财经」の創業と離別

1998年、 胡舒立は王波明とともに、雑誌「財経」を創刊した。開始前、 胡は王に二つの条件を出した。ひとつは王が編集内容に一切干渉しない事、ふたつめは記者の収入を保証しそれによって賄賂に染まる事を防ぐため200万元の経費を提供する事。胡はこの雑誌で、真実の中国を描きたかったのだ。

財経は調査報道を旨とし、創刊第一号で早速金融業界の黒幕について取り上げた。
アメリカの雑誌The New Yorkerが胡を特集した際にも取り上げられたが、1998年4月に財経が創刊号でカバーストーリーとして取り上げたのはとある不動産業者で、虚偽の報告によって株価を4倍につりあげていた。以後、財経は 《基金黑幕》、《银广夏陷阱》、《庄家吕梁》 などの記事を世に問い、数々の黒幕たちを葬ってきた。

胡は 2001年に胡はアメリカのブルームバーグ・ビジネスウィークで「中国で最も危険な女性」と称された。胡はその心得について海外メディアのインタビューを受ける時「私は報道の限界をどのように知るかを知っている、私は限界まで近づくが、それを踏み越えることは絶対にしない」と表現した。

「 独立、独家、独到 」という方針とともに、財経は中国でもっともすぐれた財経系の雑誌となった。とある報道によればこの時、財経の広告収入は年に1億元を超えていたという。200人程度の従業員のメディアが生んだこのような大きな収入は、国内の伝統メディア産業の平均を大きく超えていた。

胡舒立は「財経はキツツキである」といった事がある。「樹を倒すためではなく、さらに強くするためにある」ということだ。

財経は創業以来十数年、プロフェッショナルなニュース主義を堅持し常に名声と名誉を得てきた。しかし2009年7月、絶え間ない編集への干渉に悩まされた胡は、ついに財経を離れることを決める。
創刊当初に胡が要求した「編集内容への不干渉」は11年の時を経て、跡形もなくなってしまった。

1998年4月から2009年11月までの11年7か月の間,胡はふたつのことだけをしたといえる。それは45歳にして財経という雑誌を創刊し、56歳にして辞めたということだ。

財新の全面有料化と、胡舒立の賭け

2009年、胡は百人以上のチームを率いて辞職、年末には 财新传媒を設立した。財経の成功と胡は不可分の関係にある事は疑いがなく、その意味で、創始者である胡が去った事は、メディアの時代の変革の開幕を意味していた。

财新传媒は設立たった半年で、すでに影響力を持つようになった。 财新传媒の执行总裁兼总经理である吴传晖はとある公開の場で、「我々のチームが財経を離れて財新を作ったのは決して独立した偶然の事件ではない。その背景には国内のメディア業界が古い体制の下ですでに10年以上の高速の発展を遂げ、制度、管理、人材、コンテンツやコミュニケーション方式、ビジネスモデルなど様々な面において限界を迎えていたという背景がある」と述べている。

吴传晖が財経を離れたのは変化とイノベーションを求めたことが理由で、次の10年の新しい発展のためだった。そして彼女が言ったとおりに、独立的で尖った報道スタイルで、财新は胡の元、急速に発展を遂げた。財新はニュースの質を担保すると同時に、数々の新しい制度、プロダクトやビジネスモデルを導入した。これらは以後の有料メディアの基礎を作った。

财新传媒のビジネスモデルは、投資家たちの評価も高かった。6回にわたるラウンドにおいて、テンセント、华人文化、アントフィナンシャルが投資を行い、 2016年11月2日に実施されたD+ラウンドでは 西部资本、招银国际 などが参加した。

2017年10月16日、財新は本格的に有料化の道を探り始めた。そして 2017年11月6日から財新網の主要なニュースコンテンツの有料化を進めると発表した。 财新周刊デジタル版(298元/年)を買っていれば会員資格があり、三週間後には 财新通(498元/年)になることができた。

财新网(訳注:PC版)は财新传媒に属す。 财新网以外にも、 财新传媒の下には 财新周刊、财新国际、财新《中国改革》 などの媒体がある。以前は財新は半有料で 《财新周刊》、“数据+” そして英語メディアは有料だったが、 财新网は無料だった。

财新网の有料化が意味するのは、財新が国内で初めての全面的な有料化を果たしたメディアであるということだ。そしていわゆる「ノンコアユーザー」を切り捨てるというやりかたは世界中のニュース産業を見回しても非常に稀なやり方だと言える。
胡舒立は以前インタビューで「中国の読者は無料という幸福を楽しみすぎている」といったことがある。これこそが財新全面有料化の伏線であったのだ。

市場と伝播力、報道の有料化における2つの問題

改革、イノベーションの面において、財新は疑う事もない業界の先駆者だ。しかし全面有料化に踏み切った後、財新の未来の成功に対しては少なくない人が疑いの目を向けた。胡も大きなプレッシャーにさらされた。

一点资讯の総裁陈彤は公開の場でニュースが金をとれるとは思わない、メディアは何といっても営利機構なのだからと述べたことがある。

報道の有料化は最早新しいことではない。そしてその難しさは金を払うことに同意する人たちの市場をいかに形成するかということだ。財新以前、少なくないメディアが有料化を試みた。 2010年には人民日報もペイドウォールを作ったが、最終的には失敗している。

ある意味で、メディアの有料化はニュースの拡散を制限することになる。そしてそれだけでなくもう一方ではこれは読者のロイヤリティを試す事にもなる。

事実として、全面有料化開始後の財新の有料部分の収入は全体の10%程度で、短期的に経営を支える水準に持っていくことは難しいし、広告収入はやはり収入の大きな存在感を占めていた。

华人文化の董事长黎瑞刚は财新传媒への投資は戦略的なもので、このメディアの業界内の影響力を重視したもので、だからこそ一定の損失は受け入れることができると語った事がある。

財新有料化の成否は多くのニュースプラットフォームに影響を与え、また彼らのトライアンドエラーのコスト節約に役立った。しかしこれは財新自身にとっては、ある種の博打の開始を意味した。

専門性に支えられた信心

財新の全面有料化には多くの課題を抱えてはいたものの、多くの業界人たちが支持を表明した。 蓝鲸がインタビューを実施した業界人たちは、財新は国内でもっともニュース有料化に対して積極的である。そして胡舒立こそがこのようなビジネスモデルを行える可能性が最も高い人物だという共通認識を持っていた。

「財新がこの道を歩き続けられるといいなと非常に期待しています。知識であれ情報であれ上質な内容が金を払うに値するということです。正直言って、財新が金を払うに値しないのならば、中国の同じような分野の他のメディアのどれにその価値があるか、まったくわかりません。」 新榜の創始者である徐达内は以前蓝鲸のインタビューを受けた際にそう語った事がある。

徐达内はまた、 胡舒立は専門主義を実践するお手本で自分がとても尊敬するメディア人であるとも述べた。

アクセス数を広告に変えるビジネスモデルが流行する一方、報道業界の人にとって、有料化は諦めきれない夢だ。財新の以前の在籍者によれば、財新は常に高い給料により高い倫理観を保持するという姿勢で、編集と市場(訳注:広告)が高度に分離されており、こうしたことが胡舒立のいうニュース報道のプロフェッショナル主義を最大限保障していた。

财新通の会員が20万人を超えたころ、胡は第一線から退いた

2018年末時点でいえば、 胡舒立による賭けは悪くない成績を収めていると言える。今年(訳注:2018年)11月6日に证券时报が報じたところによれば、財新通の個人有料ユーザは20万人を超えて成長し続けており、今後読者層を拡大しより多くの形式を試し、購読のハードルを下げるつもりだという。

胡本人によれば、 财新网の月間PVは1億を超え、UVは5000万だ。レジストすみのユーザは200万を超え、閲覧時間も延び続け、閲覧ページ数も業界平均を軽く越している。

胡はまた、財新が中国で初めて有料化したことのプレッシャーも、また多くの支持もともに予想していなかったという。財新は不断の努力で運営とサービスの改善を続けているものの、技術的な面での課題も大きい。财新网は高品質のニュースに支えられ有料化を果たしたが、同時に読者層を拡大し続けることも必要だ。

高品質でオリジナルのニュースを作り続けることはニュース専業主義を標榜する 胡舒立と常に離れることはない。伝統メディアから新メディアに形を変えたこの数年、財新が行った変化、探索、イノベーションは他の誰もが成し得なかったことで、これも胡が財新にもたらしたもののひとつだろう。

今年1月、 财新周刊の第784から787号の奥付を見ると総編集長の名前は元々の胡舒立から王烁に変わっていることに気づく。财新传媒は公に胡舒立の総編集長離任と、CEO兼社長として引き続き財新に関わることを発表している。