特ダネを発表前に正当ではない方法で盗まれ自分が発表する前に他社に発表されてしまった場合、何の罪にあたるのだろう。もしくは既に発表した内容であったとしても、もしそれが元々有料サイト内の情報で「盗んだ」方が核心を無料で公開してしまった場合は?そしてもし相手が「内容は参考にしたが文章は自分で書いたからパクリじゃない」と主張しはじめたら?
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いま中国のメディア業界で、このことが大きな議論を呼んでいる。新华社《瞭望东方周刊》主筆、《网络传播》执行主编、无界传媒执行主编というメディア業界人としてはそれなり以上のキャリアを持つ黄志杰という人物が、自分の微信のオフィシャルアカウントで「甘柴劣火」という記事を発表したのがそのきっかけだ。
この記事の内容はと言うと、以前このブログでも紹介した(市政を牛耳った新聞記者「三番目のマー」の顛末)甘粛省の武威市という町の記者と官僚の腐敗の顛末についてもっと長い時間軸で書いたもので、僕は当初この騒動を知らずに読んだが内容としてはとても面白いと感じた(この記事は上記の「三番目のマー」事件の背景やその後についても触れられているので、今後訳出する予定だがひとまず本日の内容とは関係ないので割愛する)。
激怒する財新記者
この記事「甘柴劣火」に対して腐敗を最初に報じた有力経済メディアである財新の名物記者王和岩が激怒、「取材もせずリスクも冒していない記事、しかも有料記事から内容パクって何様だ」と投稿したことで議論になった(財新の記事は一定部分以上は有料)。
これに対して筆者の黄志杰は次の投稿で自分が参照した財新を含むすべての記事・情報を挙げた上で、「それらを参照はしたが、文章についてはそのまま使った個所はなく、記事自体は自分の着眼点と文章でまとめなおしているので問題があるとは思えない」と反論している。
パクリとは何か?文章か、その魂か
論点を整理してみよう。大まかに分けると
- 感情的・お作法的にどうなのか
- 法律的にパクリと認定されるのか
- メディアが有料を理由に情報を囲い込むことの可否
となろうか。まず、このような内容が元記事の筆者の不興を買うのはやむを得ないだろう。文面をそのまま使っているわけではないとはいえ自分が長い時間かけて取材し努力して書いた記事の内容を勝手に使われれば、愉快な気分になれない人はいる。しかもそれは、安くない金をわざわざ払っている会員向けに公開した記事だったわけだ。
では法律上これがいわゆる剽窃(パクリ)なのか?というと、例えば日本の著作権法はアイディアや着想ではなく、アイディアのアウトプットの類似性の保護しかうたっていない。だから画像であれ文章であれ「そのままの部分」がありそれが引用の範囲を超えていない限り、基本的には対象とはならないはずだ。
また検索で追える範囲ではあるが中国の著作権法および関連法律である《图书期刊保护试行条例实施细则》第十五条には、
- “詩ではない文章を引用する場合、2500字或いは引用元の作品の総量の1/10を超えない
- “一人もしくは多人数の作品を引用する場合は、その引用の総量は本人が創作した部分の1/10を超えてはならない
とあるとのことで、やはり表現物としての文章の取り扱いの規定であると読める。だから原作者としては不本意であろうが、今回のようなケースはおそらく法律上は剽窃とは認められないのだろう。またこの文章は上述したように財新のひとつの文章だけを元にしたのではなく、様々な記事の内容を組み合わせて書かれている。従ってこの面でも剽窃であるという非難は成り立たない。
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では他人のアイディアである特ダネを勝手に使うとメディアの世界ではどうなるのか?
日本でも例えば16年、宮崎謙介議員の不倫疑惑について実際には週刊文春が調べた内容であったにも関わらず、スポニチがあたかも自社が調べたかのように書いた(しかもスポニチの記事は週刊文春の発売日の前に出された)件で文春側からスポニチに正式な抗議が行われたことがある。結局どのような落とし前になったかはわからないが、明らかにスポニチに非がある事、また双方ともにメディアであることから、謝罪で幕を引いたのではないかと思われる。
公益たる報道に個人の権益を保護する「著作権」という考えはそぐうのか
同時に、これが文学作品などではなく報道であるという点が問題に厄介な論点をひとつ加えることになる。
報道はある種の公益性、つまり「(例えば世の中に起きている問題を)できる限り多くの人に知らせる事」が本義だ。であれば、自分の都合だけを考えて「これは有料だからこの情報はみんなに知らせるな」というのは態度として正しいのか?という疑問は成り立ってしまう。
ただ同時に現実を見れば、当然報道を行う側も霞を食って生きているわけでもなく、取材を行うにもカネはかかる。「みんなのためになるからタダで働け」は成立しないのもまた真だ。
そしてまた、公益性を強調すると議論は「公益のためなのであれば、そもそも報道は営利企業が行うべきことなのか」という所に行き着いてしまうという別の問題もはらむ。
アメリカなど一部でこうした税や補助金による報道機関への支援に関する議論は行われている。しかしこの場合政府や自治体など「補助金を支給する側」に対する監視が働かなくなるという懸念も同時に生まれるため、簡単に物事は進まないというのが現状だろう。
「公器としてのメディア」が実現してしまう中国 におけるジャーナリズムの生存空間
皮肉なことに、これはすべての媒体が直接的・間接的に党の管理下に置かれている中国においては一部成立するかもしれない。ジャーナリズムが成立しづらい中国でこうした事が起きるのはいささか奇妙ではあるが、政府の管理と援助を受けている(≒税金で運営されると言い換えることもできる)以上、いたずらに営利を追わずに公益を優先すること自体に一定の合理性があると捉えることもできるのだ。
しかし上述したような権力の監視は難しくなる。そして実際現在の中国で実際にメディアがウォッチドッグとしては機能していないのはご存知の通りだ。今回真っ先に声を上げた財新とて「ジャーナリズム的なもの」を標榜はしているが、例外ではない。
あまり知られていないが財新の最大株主は50億元規模のファンド「华人文化产业投资基金」で、このファンドは中国で二番目に大きいメディアグループである上海东方传媒集团有限公司(SMG)の出資比率が高いといわれる。SMGは放送関係の監督官庁である广电总局の直轄管理であり、財新自身も間接的には广电总局に管理されているといえるだろう。
しかし中国で財新が報道内容にそこまで露骨な干渉を受けない理由は、その管理構造が(結局の大本が政府とはいえ)複層的になっていることも原因のひとつであると推察される。
まず株の持ち分についてはSMG系ファンドだけではなく、以下のように分散されている(厳密にいえばそれぞれの持ち分比率は非公開なので、実質的な支配関係はこれだけでは論証不能ではあるのだが)。ちなみにテンセントとアリババも持ち分があると報道されており関係者もそれを認めているものの、公開されている株主一覧に直接は名前が出てこない)。
次に、刊行物として必須の出版コード は中国文史出版社という出版社が提供している。この会社は中国人民政治协商会议全国委员会という国の重要な諮問機関(毎年三月に開かれる中国で最重要のイベント 「两会」 の2つの会議のひとつがこの政協会議)の下部組織であり、党の公式文書など関連の書物を多数出版している。党にとって問題のある内容であれば出版コードは即座に剥奪されるということで、これは編集部への一定以上の牽制になっているはずだ。
この2つを見ると、組織・部門同士の横の連携に乏しい超官僚主義的な中国政府だからこそ、分散された株式と出版コードという複数の縦のラインで管理をすることで一種の権力間の均衡状態を産み、そこにジャーナリズム的な「(安全弁付)自由」空間が創り出されているという風に見ることができるのだ。
財新の報道は偏りも指摘されながらも、確かに企業家・政治家の腐敗を追求することでの国内の自浄作用の一部を担っている。もしこれが意図的な設計なのであれば非常に興味深い。
そしてこれは日本でも起こるかもしれない議論
事の発端に戻り簡潔にまとめると、問題の図式は「有料メディアの記事内容を使って書かれた無料記事がアクセス(とそれがもたらす広告等の収入)を稼ぐことを許していいのか」ということにまとめられろうだろう。これを日本のメディアで考えると、Newspicksや新聞の有料記事部分をまとめサイトに転載され、そこで稼いだPVでまとめの運営が儲けているといった図式だろうか。つまりこれは、中国メディア特有のややこしいことがなくとも起こりうる話なのだ。
類似の事件として新聞社がNAVERに対して抗議するということも実際に起こっている(「ネットの無断転載への逆襲が始まった 普段はバラバラの報道7社が連携した理由」 BuzzFeed News)。
※ただしこの場合は写真や文章の無断転載であり、より明確に権利上の問題が存在する。
中国でも同じような問題は以前から起こっていた。しかしあまり大きな問題とされていなかった割に今回大騒ぎになっているのには単純に記事が注目されたという事に加え、「パクった側」が素人ではなく元々業界人である為に財新側の怒りが大きい事、そしてこうした自分のメディアで稼げる金が日本よりも大きい中国では媒体側として見逃したくないといった要素が考えられる。
そういったことを考えると、日本でも今後同様なきっかけ、一定の収益力を持つ例えばイケダハヤトがNewsPicks内の記事などを寄せ集めて情報商材化して販売、それに対して佐々木紀彦が激怒し田端信太郎が加勢する…といったことがあれば…ああ、炎上の様子が目に見えないだろうか(イケダがそんな手間のかかる事をするとは思えないが)。
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当サイトで少し前、チャン・イーモウの新作映画「影」音楽の剽窃疑惑についての騒動を取り上げた(「チャン・イーモウの新作を覆う「影」」)ことがある。音楽であれ報道であれ、こうしたことは法律だけで解決するにはそぐわない。
また相手が個人 (といっても違いは規模の大小でしかない)の場合、収益配分や引用のルールを設定しても守らせることは一層難しいだろう。同時にメディアが仮に公器であるとしてある程度他に情報が利用されることを許すとしても、今回のように個人側がそれによって収益を得るのであれば端的に言って不公平である。
この騒動が何か明確な形で解決するとは思えないが、少なくとも何らかのヒントを得られたら面白いと思っている。