生き証人が語る三里屯の20年(翻訳)。

北京を代表するバーストリート、三里屯(サンリートン)はここ最近ですっかりきれいになった。その代り、ありがちな話ではあるが昔はあった怪しさや猥雑さがなくなり、退屈な通りになってしまったと感じる人も多いのではないだろうか。もしかしたらそれは、漂白されたという方がぴったりくるのかも知れない。

そう聞くと同じく観光客向けのテーマパークと化した歌舞伎町を思い起こす向きもあろう。しかし最大の違いは実害、つまり少なくともひところの歌舞伎町を象徴したのは快活林であり、パリジェンヌであった。だからその牙を抜き、「清潔」な街にしようという意図はわからないでもない。

しかし三里屯には、少なくとも知る限りその種の危うさはなかった。そしてきれいになった三里屯のバーストリートを占めたのは、中国ではどころか北京の他の場所にだってどこにでもあるような高級ブランドが集合したモールで、結局のところ街は単にその個性を奪われただけに思える。

以前Twitterに現在の三里屯の写真を投稿したときにも、ぽつぽつとそのような反響を頂いた。北京と縁深いとは言えない僕でさえ、三里屯には思い出がある。この道沿いで会った英語が達者なウイグル人のギタリスト、キューバに留学していたことのあるパーカッショニスト、日本のSNS向けのゲームを作るアメリカ人、白酒が手放せないといっていつも小瓶を持ち歩くアル中アメリカ人大学生、僕の友人に一目惚れしたのか店を変えても変えても追いかけてくるゴルフ場を開発する金持ちオーストラリア人…。

僕が知るのはたかだかここ10年にも満たないくらいの時間だが、おそらく古くから北京を知る人にとっては、もっと前は、もっと面白い場所だったのだろう。

・・・・

今日紹介する文章は、その三里屯で花を売り続けて20年になるおばさんの口述。「人物」という、その名の通り毎回ひとりの人物に焦点をあててロングインタビューを行い、深く紹介する雑誌が出典。

長期間の密着により普段取り上げられるのと一味違う切り口で有名人たちを取り上げる記事も面白いのだが、こうした「無名の人」の切り取り方も独特で、非常に面白い。

三里屯で20年花を売ってきた私と会ったことがないって?

出典:我在三里屯卖花二十年,什么没见过?(人物 2018/7/14)

数年前、高晓松は三里屯で花売りのおばさん、李会兰と出会った。何度かのやり取りの後、彼は微博で感慨深げに「彼女は15年の間に12万のバラを売り、100万の恋人たちに出会った。そんな彼女に昔と今で若者はどう変わったと思うか聞いてみた所、彼女は前は1束1束買っていったものだけど最近の子たちは1本1本しか買わなくなったという。あと最近は悪いやつが多くなって、最後にどうするかばっかり考えていて、我々の頃みたいに何も考えていなかった男女とは全然違うね」と語っていた。

少し前、我々も三里屯で李会兰と会うことが出来た。

・・・・

「北京にはナイトライフが必要だ」

1995年、以前ケンピンスキーホテルで働いていた李亨利は、オーストラリアでホテルマネジメントを学んだ後帰国して、その足で三里屯に向かった。「ナイトライフの主流はカラオケでもなく、サウナでもなく、バーだ。三里屯は北京のバーの中心になる。」「僕は中国人の『朝9時から夕方5時まで』みたいな生活の秩序を変えたい」と彼は語っていた。

1年後、李は三里屯北街にあるアルプスビールという店を買い取り「白房子」と名前を変えた。これが三里屯で最も初期のバーのひとつで、その頃李が語ったとされる「晚上不出来,白活一辈子(夜に出てこないなんて、一生をムダにするようなものだ)」は今でも三里屯で語り継がれる言葉になっている。

白房子酒吧(ネット上画像)

その後20数年経って、夜の三里屯は北京ナイトライフの代名詞になり、この街の裏にある欲望やホルモンを蓄積させ、北京で最もセクシーで、ぶっ飛んでいて、おしゃれな一面を見せている。

高晓松は、その最初期の三里屯に毎日出入りしていた若者の一群のひとりで、かれらは毎日のように白房子で酒を飲んで博打をし、「人生はこんなものだ」とうそぶいて、博打に勝てば喜んでどっさり花を買い、そこら辺にいる女の子に別け隔てなく配った。そしてその頃まさに、高晓松は三里屯で李会兰に出会った。

初期の三里屯を彩ったのは北京の大小とりまぜた有名人たちだった。ここではフェイ・ウォンと離婚したばかりの窦唯が記者にコーラを引っ掛けたり、艳照门にはまり込んだエディソン・チャンがパパラッチを殴ったのもここだった。三里屯にある派出所は毎晩遅くまで明かりが絶えることがなかったものだから、酔っぱらいからは個性的なナイトクラブだと思われていた。

言い伝えでは、周迅が撮影のために北京を訪れた時三里屯で1人の歌手に出会い、それはすぐに彼女の芸能界に入ってからのはじめての恋愛になった。十数年後、高何某の奥様になった周迅は北京に戻って、三里屯の四号厨房で友人を集めて宴会を開いた。

三里屯が最も注目されていた頃、王朔、姜文、叶大鹰などの有名人が共同出資してバーをオープンさせた。ある人が「非话廊」という名前にしてはどうかと言ったものの、高尚で文化的過ぎるという理由で否決され、結局他の人が「王老师酒吧」にしてはどうかと言ったところ、王朔は「何格好つけてるんだよ、そのまま『王吧』でいいじゃないか」と言った。

昔、王朔もまた三里屯でバーを経営していた。画像はネット上より。

・・・・

三里屯では、もはや定番になったような歌を書いた人もいれば、定番になった小話を書いた人もいる。

ミュージシャンの丁原は失恋した時に三里屯にきて酒の力を借りて無聊を託ち、ビールを半ダースほど飲んでゲロを吐きながら後に歌手陈琳の代表作になった「你的柔情我永远不懂」を書き上げた。
老狼が歌の中で懐かしんだ「同じテーブルの君」は現実の中では彼と同じテーブルにいた大物作家で、その時2人はNokiaの同じ3210という携帯を使っていて、散々飲んだ挙げ句お互いの携帯を間違えて持ち帰った。大物は老狼あてにかかってくるたくさんの電話を受け、また老狼も大物宛の原稿催促の電話を受けた。

二人が携帯を交換するために会った時に大物は老狼に「まさか俺の携帯で国際長距離電話とか掛けてないよな?」と聞いて、老狼は「アメリカって…国際長距離ってやつに  入るのか?」と返したという。

・・・・

時が流れ、デベロッパーが来て、観光客が来て、バーにたむろしていた文芸青年たちは、家族を作る者は家族を、国を出るものは国を出て、白房子のオーナーも変わり、王吧は閉まってしまった。三里屯も、今では夜の北京で唯一開いている場所ではなくなった。すでに矮大紧と名乗るようになっていた高晓松も、まだたまには三里屯に顔を出していた。しかし彼に言わせればバーは彼の行き先ではなく、好きなPage oneという書店が三里屯にあったからだということだ。

花売りの李会兰は、まだそこにいた。

数年前、高晓松は三里屯で花売りのおばさん、李会兰と再会した。何度かのやり取りの後、彼は微博で感慨深げに「彼女は15年の間に12万のバラを売り、100万の恋人たちに出会った。昔と今で若者はどう変わったと思うか聞いてみた所、彼女は前は1束1束買っていったものだけど最近の子たちは1本1本しか買わなくなったという。あと最近は悪いやつが多くなって、最後にどうするかばっかり考えていて、我々の頃みたいに何も考えていなかった男女とは全然違うね」

少し前、私も三里屯で李会兰に会い、その口から三里屯の20年の歴史を聞いた。以下はその口述だ。

・・・・

私は1997年に三里屯で花を売り始めた。

最初の頃、この道には大人ひとりの花売りは居なかった。ほかは全部4,5人のようやく歩けるようになったくらいの子供を連れた大人ばかりだった。小さな子どもが走ってきてあなたの足に食らいつき、花を買ってあげないとその手を離さないといった手口で、労働者の月給が数百元だった時代に、すぐに何十元を売り上げた。その後誰かが通報したのか子供に売らせるということはできなくなって、私はここで花を売るようになった。

当時は隣近所に見られて笑われるのではと思ってこそこそしていた。ここに来ても恥ずかしくて花を買うかなんて質問できず、マナーが悪い客にあたるとどやされたりして、夜家に帰ってこっそり涙を拭っていた。

いまのようなバーストリートができる前、三里屯南街は車のパーツを売る場所だった。修理工場もあったし、服屋もあって、バーの正面は団地だった。その頃のバーといえば内装はとてもダサくて、入り口を入ると木製の机椅子があるだけでまるでレストランのようだったので、たまに「炒めものある?」と聞く客さえいて、来るのも大体中年ばかりで、店中にいるのはみな4,50代、会社の飲み会や家族や親戚の集まりでバーに酒を持ち込んで飲むのは面子があることだった。

その頃流行っていたのはサンタナに乗って、ポケベルを持ち、バーに遊びに行くにも正式な格好をして、こういう店に座るのもちょっと堅苦しい感じ,何人かの女の子と雑談し、盛り上がってきたら歌を歌い…といったような場所だった。

2001年の北京のバーの様子。画像出典:视觉中国

「白房子」は三里屯の最も初期のバーのひとつといえる。南街にあって、外人に特に気に入られていた。高晓松は番組の中で、彼らは毎日「白房子」で飲んで打ってをしていたと言っていたけれど、私が彼に初めて会ったのは「男孩女孩」でだったと思う。

その頃1週間に2回くらいは彼と会った。10時過ぎに店に入ってきて座るやいなや酒を並べ、別にたくさんしゃべるわけでもなかった。夜も遅くなって人も少なくなってくると、彼はおねえさん、おばさんと雑談をはじめた。彼は年上と話すのが好きで、以前聞いた話を気にしたりして、色々話を聞きたがった。

その頃は高晓松がいわゆる有名人だなんて知らなかったし、彼は俺のことは小高と呼んでくれよ、といって、とても気安い感じだった。ひとしきり話し終えて心の中になにか閃くものがあると、A4の紙を持って部屋の隅に行ってなにか書きはじめ、2時3時になって私達がみんな帰っても、彼はそれを書き終えるまでそこにいた。

・・・・

丁磊(訳注:网易ネットイースの創業者)もよく覚えている。2000年より前だったと思うけど、网易を創業してすぐの頃、丁磊はスリッパにTシャツ短パンで6,7人で一緒にきていた。私はバーの入り口に置いてあった雑誌がこの人を照会していたのを見たことがあった。それによれば彼はまだ27歳でその会社を作ったという。私は彼を見つけたので「丁磊さんでしょ、网易をつくった」と声をかけた。彼はちょうど2日後に記者発表会があってたくさんの友達をよいしょしなければいけないと言っていた。そしてその当日、彼らは20人以上で来て、発表会が終わったから私達が売っている花を全部持ってこいといい、花がない人には1人50元渡した。その頃は50元でも結構なものだった。

2000年頃、网易成立初期の丁磊。出典:视觉中国

あの頃、みなの収入は今のように多くなかったし、金もなかった。でももっと自由で気楽だった。花もよく売れた。私も毎日100元以上売ったし、一番いいときは200元以上売ることさえ出来た。

その頃、私達は高晓松に花を買うように勧めたけれど、彼は僕が買っても送る相手が居ない、めんどくさいから女を買うでもなしと言った。私達はじゃあ舞台で送ればいいと言ったら、彼は本当にそうした。ときには彼らがグループで遊んでいるのに出くわして、飲んで出来上がっていた彼らは博打で勝てば1束まとめて買ってくれて、連れている女の子に1人1本ずつ渡した。彼らのグループは男女色々いたけれど、みんな一緒に見えて私も誰が誰だかわからなかった。

臧天朔が斯琴格日乐を追いかけていた時は、来る度に私達が売っている1束100元の花を全部買い取った。彼は立て続けに1ヶ月以上に来続けた。最終的に彼は彼女を落とした。彼らが来れば大儲けなので、私達はいつも首を長くして待っていた。

・・・・

時が経ち、夜ここに来て遊ぶ若者は増えていった。三里屯もどんどん変になっていき、昼間の北京とまったく違う世界になっていった。

ここでは喧嘩も多い。夏になると小さな胡同の中で飲みすぎてしょっちゅう喧嘩になった。ある人が酒瓶をもってふらふらと店に入って誰彼構わず飲まないかと声をかけ、嫌がる人が足を引っかけ、机がひっくり返り大騒ぎになって、部屋中に酒瓶が飛び交った。

メーカーが送ってくる販促の女の子も多くて、バドワイザーは黄色いスカート、ハイネケン、青島は緑といった風で、一軒の店の中に数人立っていて客が入ってくるとこの子達はさーっと動いて取り囲み「私の酒を飲んで!私の酒を飲んで!」といい続けた。酒を売ればインセンティブがつくからね。客がじゃあ僕は誰のを飲めばいい?と言ったら時には焦った女の子たちがお互いに罵り合い初めて髪をつかみ合っての喧嘩になったり。あとになってメーカーは女の子を送らなくなり、直接店員が酒を売るようになって、客がなになにの酒を飲みたいと言えばそれを持ってくるようになった。昔はあからさまで客が来ればどうするか聞かれたけど今はそうもいかなくなった。でも酒に付き合ってくれる女の子はずっと居る。

バーの数もどんどん増えていき、屋台でちょっとした食べ物を売るような店もまた増えていった。最初は煎饼や鸡蛋灌饼、あとになって麻辣烫が多くなり、他にも羊肉串を売るような掘っ立て小屋も並んでいた。いずれも10時に城管が帰る時間になって現れるから、その時間になると車も通れなくなった。

三里屯で花を売る李会兰

バーの中で出すビールは1本数十元だけど、こうした屋台では3元で売っていたからいいビジネスだった。そのビジネスがうまく行っているのを見て、ヤクザのグループがこうした屋台から保護費を取るようになった。私にはあそこで小吃を売る親戚がいたんだけど、その人によれば一晩50元収める事を要求されて、収めないと刀を持ってぶった切ると脅されたらしい。
麻辣烫を売っていた人は多かったから収めず、ひとり100元で20人の人を雇って喧嘩になったら出てくるように見張らせた。ヤクザの方も30人雇って本当に喧嘩になった。でも10数日後、麻辣烫屋はいつものように現れはじめて、結局保護費とやらをとることもできなかったようだ。

UEFAであれ、W杯であれサッカーの大きな試合があると、このあたりは更に盛り上がった。

サッカーの大きな試合があるごとに、サッカーファンはバーに集まる。出典:视觉中国

2008年だったと思うけど、サッカーの試合があった日に自分の国が勝ったっていうんで喜んだ白人の外人が裸で顺南口から北口まで走りまわった、なにか叫んでいたけど何を言っていたかはわからない。当時花を売りながら、飲んでいた男の子たちが飲むのをいったんやめて大騒ぎしていたのを見て本当に嬉しかったんだなとおもった。私が歩いていると、私の肩を掴む人がいて、彼ら、つまり外人のグループは私の後ろで写真を撮っていて大騒ぎで、やれやれ、振り向いてみると彼らはみんな裸になっていた。

2008年以降、工人体育館や后海にもバーストリートが出来始め、客もすこし分散し始めた。競争のために三里屯のバーはポールダンスを始めた。踊り子はみんなビキニみたいな服を着て。私はこんな格好で出てきていいの!?と独り言を言って、店に入っていって花を売るのはよくないと思ったし外からも見ている勇気がなく、ちょっと盗み見るだけで、それを見ているのを人に見られたら「こんな年食ってまだこんなの見てる」と思われるんじゃないかとちょっと恥ずかしい気分になっていた。

だけど、来る人にとってはそれがとても新しかったらしく、通行人が立ち止まってわざわざ見る様子は、私達の世代以上の人たちが白黒テレビを街頭で見ていた時と一緒で、見終わったら家に帰る、という感じだった。

この頃、街にいる女の子たちの服の面積はますます少なくなっていた。私は家に帰って旦那にぶつぶつと、バーにいる子はみんなおかしい、胸や背中が見える服を着ているし、直接ブラが見えている服を来ている子もいると愚痴る毎日だった。こういうを見てしまうと、私はいつも手で顔を覆ってそむけていた。

数年前、また丁磊に出くわしたことがある。彼はまだジーンズに白Tシャツで、また一人ひとりから花を1束ずつ買った。私は20元といったけれど彼らは50元、また100元をくれた。その後、長い間彼を見かけることはなかった。

・・・・

いま、三里屯に来る有名人は以前のように多くはない。メディアやインターネットは発展しすぎてしまったし、みな今では携帯電話を持つようになった。多分、有名人たちもたくさんの人に気づかれるのを恐れているんだと思う。那英や孙楠が飲みに来るときだって帽子をかぶってメガネを掛け、車を停めるやいなや店の片隅にいってしまうものだから、前に回ってよく見ないと誰だかなんてわからなかった。

携帯がなかったあの頃は、みんなそこまで緊張していなかった。姜文と姜武哥が飲みに来たときだって、そこらへんに座って雑談して、周りにいる人と乾杯して去っていたりした。

この二十数年で私が感じるのは、冬が昔より寒くなくなったことだ。ある年はマイナス17度まで下がったことがあって、あまりの寒さに木の上に止まっている鳥たちが凍ってしまっていたことがあった(笑)。気候は暖かくなったけど、人の心は遠くなってしまった。プレッシャーは日増しに強くなり、あの頃の高晓松みたいに無垢奔放にここにきて遊ぶ若者は少なくなったように思う。

最近よく見かけるのは、グループでここに座ってはいるものの、みんな携帯をいじっていて顔をあげず、別に話すわけでもない。花を買うかと聞いても聞こえていない。あるときは2人で来ていて長い間なにかの交渉かなにかで話し込み、男が女に1本の花を渡していた。1束1束で花を買う人はどんどん少なくなっている。
前も女の子と台湾人の男が一緒にいて、女の子が花を欲しがったけどその男はずっと買いたがらず、結局最後には折れて1本買わせたということがあった。私はあまり理解できない。彼らは大陸の友達に花を送るという風習にうまく適応できないんだろうか? 

李会兰は時々路上でも花を売る。

時々、この携帯というものは本当に時間の無駄遣いでしかないんじゃないかと思うこともある。でも、なくなってしまったらそれはそれで困るのも本当だ。昨日も私は携帯を忘れて仕事に行ったんだけれど、20元で花を買うと言ってくれたのに現金の持ち合わせがなく、4人に聞いたけど誰も持っていなかった。私は「まあいいわ、じゃあ1本プレゼントするから、もし縁があって次にばったり会うことがあったら、その時私からまた買ってくれればそれでいい」と伝えた。

・・・・

ここで泣いている人を見つけたら、それは失恋の証。二年の恋愛の末、彼氏が新しい相手を見つけて捨てられたという女の子が私に抱きついてずっと泣いていたことがある。私は花を売る手を少し止めて彼女と話し込んだ。私達はもともと知り合いなんかじゃないけど、だからこそなんでも話すことができるんだろう。だって、去ってしまえば誰が誰かなんてわからなくなるんだから。

あの頃、失恋した女の子だけじゃなく、仕事がうまくいかない男もここで酒を飲み、私に話をした。数年前、とても痩せて肌の色の黒い男が男孩女孩で酒を飲んでいた。彼があんまり楽しそうじゃないのを見て、私は花でも買って歌っている人に送ったら?と言ったところ、彼はおばさん俺は買わないよ、といいしばらく黙り込んだ。そしてしばらくして、おばさん、ちょっと休憩していきなよ、いっぱい奢るよ、といった。

彼は大学を卒業してすぐ北京で創業して、家で20万元借りすべての金を事業に突っ込んだのに一銭も返ってこないと言った。彼は「おばさん、俺はこれを飲み終わったらビルからでも飛ぶよ、もう生きていたくもない」と話しながらわあわあと大げさに泣いた。私は彼をぽんぽんと叩いて「あなたのお母さんはそんな大きくなるまであなたを育てたのに20万の価値もないの?」といった。その日、私はかっとなって、彼を長い時間説得した。

今年の春先、バーでその男を見かけた。肌は白く前より太って、彼だとはすぐにはわからなかった。彼は私を探しに何回もここに来たのに見つけられなかったよおばさんと声をかけてきた。あの時のおばさんの話がなければ、いまこうして会うことも出来なかっただろう。彼は自分が今映画を撮っているといって、私はとても嬉しかった。その時彼にいったよ。金がなんだっていうんだ、生きてるってだけで素晴らしいじゃないか、って。

その夜、彼は200元使って《世上只有妈妈好》という歌を入れた。私はとても感動した。彼は一緒に簋街にいって小龙虾を食べよう!と言ってくれたけど私は行かなかった。彼の横には女の子がいたので、花を彼に送った。

三里屯にもう20年以上もいることになる。私は花を売って我が子を大学に入れ、卒業させたし、家はうまくいっている。この通りの人もみんな私のことをよく知っているし、車に鍵を掛ける必要もない。

この通りは、たくさんのものやことを見てきたし、少なくない人を育てた。私もその一人ということになるだろう。私が毎晩ここに戻ってくるのは、ただ花を売るためだけじゃなく、ひとつの習慣みたいなものだろう。ここにいると不思議と気分が落ち着いて、まるで家にいるような気持ちになれるんだから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です