意図せざる考古学としての中国新聞研究〰書評めいた「中国共産党とメディアの権力関係(著:王冰 明石書店 2018/1刊行)」紹介

「中国共産党とメディアの権力関係――改革開放期におけるメディアの批判報道の展開」 王 冰 (著)

本書は著者の筑波大学大学院での博士論文「中国メディアの『世論監督』機能をめぐる権力関係(2013/7)」に加筆修正されたもの。刊行は18年1月で、初出から4年半経っていることになる。
党・政府(組織であれ個人であれ)の不正や怠惰を追求することで知られた南方报业集团の南方日报,南方周末を中心に、その批判記事の傾向や政府に潰されないためにどのような戦略をとっているか、といったことが多くの参考文献、実際の南方报业集团の記者などへの聞き取り、そして統計的手法によって検証されている。

· · · ·

 中国においてジャーナリズムを語る際、新聞が多く題材として使われてきた。それは中華人民共和国が成立した当初からあり、国としての中国の変遷にあわせてその在り様を変えてきており、変遷が示しやすいということが大きな原因であると思う。
例えば報道という意味でテレビは歴史が浅すぎ、またその短い時間の間でも変化に乏しい。逆にバラエティの面ではテレビは大きな変化を遂げており、面白い題材ではある、など。

本書も基本的はその路線で、新聞のメディアとしての性質や歴史を総括したうえで、12年当時の南方集団の批判的記事とその書かれ方についてまとめている。

しかし詳細に触れる前にまず述べておきたいのは、本書で語られる内容は、過ぎ去った時代を検証するという意味で考古学の範疇に入ってしまっているということは。これはいささか否定的な意味においてと取っていただいて構わない。
あとがきでも触れられているように、ここ数年でジャーナリズムをめぐる環境は激変し、すでに新聞はその中心にはいない。従って、13年に書かれた本書もここから直接現在のメディア環境への示唆を得る、といった性質には成り得ない。

· · · ·

 南方週末については、特に13年年頭の社説差し替え事件を中心に、日本でも(中国メディアをテーマとする非常に小さなグループの中ではあるが)関心を持たれ、とりあげられてきた。しかし発生した事件については紹介され論考されても、また南方週末がそもそもそこに至るまでにどのようなスタンスで記事を出してきたのか、具体的に党の管理にどう対抗していくのかといったことに関しては、日本語で整理された文献は少なかったように思う。

その意味で、本書は貴重なデータを提供しているといえる。また現場の記者に対するアンケートや実際に面会してのヒアリングなどもきちんとおさえられており、これも(日本人には難しいという点も含め)非常に興味深い。特に、批判記事の数自体は多いものの政治的リスクの大きさなどから地位の高い幹部への批判が非常に少ないことが定量的に示されている点(P.130)、党がある事件について取り上げることを禁じる「禁令」への態度(P.96)が「禁令が届く前に報道する(Top2合計47.9%)」というaggressiveなものと「禁令には従うしかない※(同計47.8%)」という諦めとがリベラルで鳴らした南方集団の記者ですら拮抗している点が興味深かった(が、上記二点はいずれも文中では特に強調されてはいないのが残念ではある)。

※文末に添付されている中国語質問票と文中の日本語表記が完全に一致していないため、中文を元にしている

· · · ·

 しかしそうした興味深さの一方、本書はいくつかの大きな問題も抱えている。専門家とはいえない身で生意気である事は承知の上で、いくつか指摘したい。

問題は3つに大別される。1)データ処理の厳密性の低さ 2)日本語を含めた校閲不足 そして3)時期を逃している事、である。以下、順に説明する。

1)データ処理の厳密性の低さ
大変失礼ながら、この点が良いテーマを相当程度に殺してしまっているように感じ非常に残念である。本書の優れた点は今まで個人の声として、もしくは様々な事象を通した(定性的)分析として語られてきたものに定量的な裏付けを与えたことであるはずが、事前の調査計画及び定量データの処理が未熟であり、信頼性に欠ける。

まず、データ操作が行われているものの、きちんと条件が開示されていない部分が散見される。
例えば第五章で取り上げられている炭鉱事故報道について、当初N=850 と宣言されていたものが、特に説明もなく表5-9においてN=613、表5-10においてN=615へと大幅に減少している。恐らく冒頭で宣伝記事・批判記事・一般記事の3カテゴリに分けた内の宣伝と批判のみをNとしていることが原因と思われるが、本文中において何も触れられていない(各カテゴリ記事の年別分類を示す表5-5の宣伝・批判を足し上げれば615になるので以上は恐らく正しいが、これでは示されているとはまったく言えないだろう。文中でその旨触れるべきだ)。またそれ以上に問題なのが、前提を同じくするはずの5-9と5-10のN数がたった2とはいえ違っているにも関わらず特に説明されていない点である。それぞれの選択肢は見たところMECEになっており、Nが変わる理由が思い当たらない。

またその他にも主要なものだけでも
– SAなのかMAなのか各表の注釈をわざわざ見ないとわからない

– MAの質問項目に合計%を記載している(MAで各項目をパーセント表示するのは全体に占める各項目ごとの比率を見るためであり、一般に項目同士を積算する意味はない。しかしP118「批判記事の内容を分類してみると党幹部の不正は90.4%」などと積算を根拠に述べられていることから、筆者はこれに意味があると認識していることが伺われ、危険である)

– 多くの表に「合計からは小計を除外」と当たり前な事が書いてあるが、個別項目と小計を同じように錯誤される可能性のある方法で記載していることが作表上問題

– 調査項目の分類に「その他」がないなど、MECEであるのか疑われる選択肢を提示していることが多い。一般的にいって数百のサンプルを3,4種類程度にわけようとした場合、いくつかはどこにも収まらないものが出るはずだ。結果として0だったとしても通常「それがゼロであった」ことを示すためにも項目は設ける

– 質問票の選択肢が必要以上に恣意的な部分が散見される(例 P.119 表4-5批判記事の内容分類において、党幹部の不正については腐敗、官僚主義、権力乱用、その他不正4つに分けている…そもそもこれがMECEでもなく因果関係もあり選択肢として適切かという別の問題もあるが…反面、非党幹部については社会の不正行為とその他の2種類にしか分けられていない。ここでは党幹部不正を主眼に置きたいという意図は理解できるが、対比で結論を導き出す以上、両選択肢はそろっている必要がある)

– 比較対象が合理的でないために結論をサポートしていない(例P127 批判的記事において公式文書を引用している率が68.5%に比べてその他の文書の引用が4%しかない点をあげて「批判記事の中で文書(補:ここでは公式文書の意)を引用することがもう1つの戦術としてよく利用されている」と述べられているが、このデータだけで言えるのは「公式文書のほうが公式でない文書より引用される率が高い」というだけであり、これが批判記事の特徴であるか否かの説明にはならない)

などを見ても定量的なデータの扱いや理解に難があるように見受けられ、結果としてデータが主張をサポートしていないことも多いことが残念だ。繰り返しになるが、定量データを用いて分析している事が本書の肝のはずだが、そのデータがきちんと扱われていないということは、かなり寂しい。

そしてそもそも論にもなるが、N数が少ないこのような調査において統計的手法(といっても結果的には使われているのはクロス集計程度だが…)が必須なのか、相当な疑問が残る。対象が新聞記事という比較的短文なものであることも含め、きちんとした仮説設定、調査計画があれば楽な量ではないとはいえ全文扱える範囲だろう。

· · · ·

2)日本語を含めた校閲不足
外国語母語者にとっての鬼門である「『は』と『が』」の使い分けが壊滅的であること、「工作」「新聞」に代表される中国語の意味をそのまま日本語で使ってしまっている点など、典型的な「日本語がうまい中国人が書いた日本語」のままだ(前提として、もちろん外国人として考えれば日本語のレベルは相当に高いのだが)。
これは本人だけでは解決することが非常に難しい問題であり、周囲がサポートするべきだろう。

そうした読みづらさだけでなく、内容に関する校閲も恐らくきちんと行われていない。
例えばP118-9の2つの表「4-2 党政幹部を批判対象とする批判記事数の年別推移」「4-3 党政幹部の不正を批判内容とする批判記事数の年別推移」は前者が対象(党幹部)のみ、後者は対象に加え内容(不正)で絞り込んでいる以上、前者が後者を包括するべきだ。しかし後者の方が数字が大きい(下図参照。便宜のためにこちらで2つの表を1つにまとめた)。

しかし表4-5を見ると4-3で絞り込んでいる批判内容は「党幹部の不正」か「非党幹部の不正」と不正以外は想定されていないようだ。そうなると、4-2と4-3に実質違いがなくなる(が、数字が一致しない)。前述したように本書では全体的に定量データの扱いが不十分なため校閲側が「諦めた」可能性はないでもないが…しかし表の順番を入れ替えてまで4-2と4-3を見開きで対置させているような小技を使う割に内容を見ていないのはいささか不誠実ではないか。

より対象が広いはずの緑を橙がしばしば上回っており、説明がつかない

全体を通して、率直にいって出版物・論文としては周囲のサポートの薄さをひしひしと感じる。これは本人もだが、同時に出版社や指導教官の問題が大きいだろう。あとがきにて謝辞を捧げられている指導教官の辻中豊氏は上記のデータ取り扱い・調査計画の不備や未熟さとあわせてどのような指導をしたのだろうか。日本語表現についても一読すれば課題があることはわかるはずで、これをそのまま博士論文として許した態度はあまり誉められたものではない(一般的に博士論文はこの程度です、というのであれば仕方がないが)。

正直このレベルのデータ分析であれば学部で覚えてくれと思うだろうなと思うし、昨今修士にせよ博士にせよ外国人比率が増えており、その論文においても全体的に日本語レベルが低下しているだろうこと、指導者として色々大変なことは想像に難くないが…。

過ぎ去ってしまったとはいえ、まぎれもなく中国のジャーナリズムのひとつの到達点であった南方集団がどのように党・国家と折り合いを付けていたかの検証は非常に意義があると感じる。それだけに分析手法や表現方法における不足が残念でならない。

· · · ·

3)時期を逃している事
これは論文の内容に関してというより、それが置かれた環境についての不運だ。移り変わりの激しい中国を題材にする以上仕方がないことではあるのだが…。
しかしそれにしても致命的なのは、論文として発表されてから4年半のうちに、中国のメディア環境は激変し、もう今ではだれも紙の南方週末なんて読んでいない事だろう。

批判報道の主役は南方週末が13年の問題の後息の根が止まり、記者個人の微博を中心としたゲリラ戦も個別に撃破されたのち、財新を中心とした雑誌メディアに移った。しかしその財新も世の中の情報メディアの急速なインターネット移行に伴う雑誌全体の収入源の激減や、明らかな党派色によって支持と影響力を失った、若しくは失いつつあると僕は理解している(新聞と違い完全に私営のメディアである雑誌は誰かの保護を受けないと誰かを批判することなどできないという現実的な問題がある)。
また発表のタイミング(13年7月)にも不運がある。これが2年後であれば新聞の地位の低下が一層明確になり、インターネットメディアにとって代わられたという次の時代の変化を射程に含めることができただろう。

· · · ·

 本書には添付資料として、ジャーナリストに実際に送付した質問票が掲載されている。この中には本文では使われていない内容も多いのだが、ぜひ回答を見てみたいものも多い。例えば
– 月収(第二回のみ次の質問で原稿料の月収に占める割合を聞いており、非常に結果が気になる)
– 取材時の経費は誰が負担することが多いか(新聞社以外に個人、広告主などが選択肢に)
– 記事執筆以外に広告を取る義務があるか、またその大小が給与に影響するか
– 報道と広告で矛盾や対立が生じた時にどのように解決しているか
– 取材の際に用いる手段(身分を隠す、尾行などと共に盗聴盗撮などが入っている)

など。

むしろこうした質問への回答を統計的に分析したらかなり面白い結果が見れる可能性もあると思う。例えば政治傾向や自己負担の割合などが収入や地位とどのように相関するのか、盗撮などのギリギリの手段を使っている記者が実際に社内で評価が高いのか、もしくは実は仕事ができずクビになりそうだからこそネタを取るために危険なギャンブルをしているのいか等…。日本と違って収入が地位と必ずしも直接リンクしないからこそ、分析してみたら面白い事実はたくさん発見できそうだ。

· · · ·

 前述したように、執筆時期もあり、その射程に限界があることはある種仕方がない面もある。しかし新聞という中国社会において長い間党の舌であると同時に人民の舌であった、また社会主義的な特色と西洋的なジャーナリズムとの交錯する場であったメディアの到達点を定量的に示したものとして本書のテーマ設定には一定の意義があると思う。
しかし反面、そのテーマの重要性と裏腹に、基礎的なデータ処理などの土台の部分が杜撰であることもまた事実で、その点は返す返すも悔やまれる。個人的にはその点を克服した上で、インターネット上に戦場を移した「管理と批判」の構図がどう変わったか見てみたいと思うのだが。

なお、筆者は現在中山大学传播与设计学院(略歴には「コミュニケーションと設計学院」とあるがコミュニケーションデザイン学院が適だろう)講師、同国家治理研究院研究員。ちなみに本人とは何の関係もないが同姓同名、しかも同じ学院のポスドクが論文の剽窃で問題を起こし、解雇されているようだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です