一介の新聞記者が本社からの人事を33年間無視し続け、接待用に超高級レストランを経営し、市政に介入し、そして私腹を肥やす。うまく演出すればハリウッド映画にでもなりそうな話だ。

とはいえここ中国。新聞記者がインサイダー情報を元に株をやったり、もっと悪い何かをして私腹を肥やしたというのは良く聞く話だ。それは(別に新聞記者に限らないが)職業倫理が全体的に低いということもあるが、雇用が不安定だったり収入が低いということも関係している。このあたりの事情は福島香織さんの「中国のマスゴミ」やふるまいよしこさんの「中国メディア戦争」などを読むと豊富な事例と共に紹介されている。

しかし、さすがに(田舎の市レベルとはいえ、200万の人口がいる都市である)政治に介入し、それを牛耳った記者というのは聞いたことがなかった。今回は有名経済誌である財新が昨年10月に掲載したそんなお話を紹介したい。
記事はこの人物の強烈な食い込み方だけではなく、実はこの記事からは中国の新聞、特にこの人物が属していた「党報」と呼ばれる半分党の機関紙のような存在の新聞がどのように金を産んでいるのか、そしてそれが記者個人にどう還元されているかといったことも読み取ることができ、そういった意味でも興味深い事例だ。

ちなみに舞台となっている武威市は中国の西北部、甘粛省で蘭州(蘭州ラーメンで知られるあそこだ)2番めに大きな街。ただ、甘粛省自体中央から遠く離れており、感覚としてはかなり田舎のそこそこ大きな都市、というイメージだろう。

なお、文中では故意なのかまったく触れられていないが、当然こうした人物がのさばるためにはそれを保護する(文中で名前が挙げられていない「書記」が最たるものだ)権力があるはず。甘粛省は今日起訴された元市長や省書記など、多くのトップが摘発されている。そして、16年の1月には兰州晨报、兰州晚报、西部商报の3紙の支局駐在記者が摘発されていて(本件との関係は不明)、政府もメディアもかなり深刻に腐っていることが推測される。

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とある省報支局長の
数億元にまつわる伝説

出典: 一个省报记者站站长的亿元传奇(财新 2017/10/27)

過去から現在に至るまで、65歳の马顺龙(マー・シュンロン)は中国ニュース界の伝説的な人物だ。

マー・シュンロン、甘粛日報武威支局長。彼は武威その場所で名を轟かせたのみならず、甘粛日報のふたつの新記録も作り上げた。1つは史上最長の支局駐在記者であること。1984年から2012年に定年退職した後までも、彼は本社からの交代要員を拒絶し、ひとつの地位に33年間居座り続けた。そしてもうひとつは甘粛日報で最も金持ちの記者…1億元(≒17億円)に近い…という記録だ。こちらについては、全国ランキングにおいても上位に入るかもしれない。

2017年4月末のある早朝、武威市委員会オフィス棟4階を訪れた一行がマーを連れ去った。目撃者によれば、省紀律委員と共に甘粛日報武威支局のオフィスを訪れた一行はほかに複数の特警を引き連れており、マーはそれに対して大声を上げて激烈に反応した。ひと悶着のあと、マーは特警によって慌ただしく連れ去られていった。

複数の情報源によると、マーの資産は1億元近くに及び、家宅捜索により1800万元以上の現金も見つかった。関係部局によると彼の問題は大別して3つで、①武威市の人事に口出しした ②長期に渡って内部規範に違反(訳注:甘粛日報は党の所有物であり、勤務する記者も公務員に準じる扱いのためと思われる)する形で個人の会社を運営し、その経済活動を通して武威市のトップを懐柔し、それによって世論操作を図った③ひも付きの記事を大きく推奨した。

情報筋によれば、マーの案件は甘粛省紀律委員会から、甘粛省検察院に移行した。

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第三のマー

マーは1952年7月に生まれた。彼は第三のマー、“书记老大,市长老二,他老三(武威市では書紀が一番偉く、2番めに市長が偉く、そして三番目にマーが偉い)”と皆に言われていた。。公開資料によれば彼は1975年7月に武威地方委員会報道グループに加入した。9年後、正式に甘粛日報の武威支局長に就任し、17年4月に拘束された。33年の長きにわたり、在職中であれ退職後であれ、マーは甘粛日報武威支局の絶対支配者だった。

同僚によれば、地方委員会報道グループ在籍時のマーは甘粛日報の連絡員としての身分でしかなかった。80年代中盤、甘粛日報が武威市に支局を開設する際、当初2人の名前があがった。マー以外では張という年老いた記者だ。張を武威に派遣するということになった際、マーは金昌にいたが、それに抵抗した。甘粛省の都市の中で、蘭州を除いては武威が最も発展していた都市だった。結局仕方なく、張が金昌に行き、マーは武威に行き、1年ごとに交代ということに話が落ち着いた。しかし退職に至るまでマーはずっと武威に居座り続け、張記者は2000年に本社に戻るまで、ずっと金昌に居続けるほかなかった。

多くの甘粛日報のベテラン記者によれば、90年代中盤には「第三のマー」の名前は知らぬ者がいなかった。「原稿を出すにも、広告を取ってくるにも、社のトップの歓心を買うにも、彼の成すことは皆の食事時の話題で、多くの人が彼らをうらやんでいた」。

マーをよく知る人物によれば、彼は背は普通、太っていて肌の色が少し深く、典型的な河西人にみえたという。外向的な性格で話がうまかったという。コネ、特にトップとのコネを築くのに長けていた。30年以上に及ぶ武威支局での生活において、マーは武威の多くの市政府幹部と緊密な関係を築き、単なる地方の顔役を越えて、様々なことを意のままに操れる人物だった。

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地下組織のボス

マーが得ていた利益の多くは新聞社での業務外の事だった。彼はよく裁判の仲裁や人事任免に関する金銭のやり取りを仲介した。

33年の武威支局生活では春が来て秋が去り、花が咲いて花が散り、武威市の幹部も次々に変わっていった。しかしマーは変わらず武威での権勢をほしいままにした。甘粛媒体のとある支局記者によると、支局記者としての評価は地方幹部との関係の深さが非常に重要で、その点マーは普通以上で、結果として一般の市役員や委員のトップの誰よりも地位が高かった。「彼は自分の事を記者ではなく官僚だと思っていた」武威市が所轄する区が两会や重要な会議を開く際、常にマーを招待する必要があった。そして彼は参加すると、党委員や市政府幹部と共に主席台に座っていた。

マーをよく知る人物によると、マーとトップとの関係構築術は一流と言っていいものだった。彼は歴代の市委員書記と良好な関係を築くだけでなく、敵勢力を味方につけることすら可能だった。

マーは長年に渡って武威で権勢をほしいままにしたが、それに納得いかない人も中にはいた。ある日マーの車が市委員大院に違法駐車されていた際、新任の委員会書記が怒り、撤去したことがあった。マーは自分の車が撤去されたことを知りその書記と大声で喧嘩をした。そのあとしばらくして市委員会が会議を開いた時にはマーはいつもの主役席ではなく記者席に座っていた。

武威日報の記者は、マーのやり方はとても賢かったという。その後も甘粛日報の中で武威市を持ちあげることを忘れず、しばらくすると書記が農村を見回る時には秘書を連れずにマーを連れていくようになった。市政府委員会が開かれる時にはマーは得意げに主席台に座った。このことは武威の政界、民間、全員知らないものは居なかった。マー自身がいたるところで彼が書記と喧嘩の末に兄弟になった話を吹いて回っていた。

もうひとりの武威にいる記者によると、市局、委員会、みな書記の執務室に仕事の報告をする際には必ず先にノックして、書記本人の許しを得ないと部屋に入ることが許されなかった。マーだけはノックもせず直接入ることができた。マーは以前ずっとソフトの中华(訳注:たばこの銘柄)を吸っていたが、書記が印象云烟を吸っていたため、その銘柄に変えたことに、記者は気付いた。

マーは常に書記のそばにいて、書記はいく所どこにでも彼を連れていった。また書記自身が一心同体だというので、当地の他の幹部たちも初期の前で悪口を言われることを恐れ、マーを罪に問う勇気がなかった。また、彼ら自身も様々なことをマーに処理してもらっていた。

マーは武威第十陸軍医院の北側に「龙马精神」という名前の茶屋を開いた。当地では非常に高級なことで有名で、酒は茅台、五粮液,たばこは中华、一回で使われる額は5,6000元どころか1万を下らなかった。マーに何か頼みごとをする人間はその店に行くし、彼自身もそこで人と会っていたので、この茶屋は一種の地下交易所のようになっていた。マーはこの「3番目のマー」のあだ名以外にも、武威の地下組織のトップとも言われていた。マーの拘束後、この茶屋も閉店された。本誌記者の把握している限りでは、マーが行っていた官位売買に関連して、既に数十人が捜査対象になっている。

マーはまた、当地における開発プロジェクトにも手を突っ込んでいた。関係者によると、ここ数年でマーを訴えた人物は数多く、また関係部門から幾度も捜査対象になっている。それを知ったマーは省級の幹部、そしてその息子を頼ってこの事態を収めた。今回マーの悪事が暴露されたのは、元をたどると当地の不動産業者からの賄賂で、マーは彼の工事工程を手助けすることを約束したが、そのプロジェクトが成立しなかったにもかかわらず、もらった金を返さなかった。それにより、業者は彼を通報した。「彼はこの数年で何も教訓を得なかった、恐れを知らないのだ」。

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支局暮らし

マーが様々なことを意のままに操れる人物になった原因は、党報記者としての身分、そして支局という特殊な環境とは切っても切れない関係にある。

1949年の建国以来、党報の主要な責務は党の方針を宣伝すること、そして下(大衆)の情報を上に上げることだった。党報の記者が下々の意見を聞くことは党と国家権力の延長だった。90年代、いくつかのメディアはより商業化の道をたどった。経済的な利益を追求するために広告を得ることは支局員の主な仕事であり、評価基準にもなった。市場化されたメディアはもちろんだし、経費が保証されている党のメディアも同様だった。市場化したメディアは相対的に政府権力を失い、地方政府の上層部は自然と党のメディアを重視するように鳴った。甘粛日報の記者であるマーは武威に居るその他の媒体に比べて有利な立場にあった。

小誌が把握している所によれば、甘粛では記者は広告を取ってきた場合8%の歩合が入るが、それが软文(訳注ルアンウェン)だと20-30%にもなる。软文とは即ち地方政府または企業がイメージアップのためにメディアに載せる文章のことで、広告の変種のようなもので、一般的に「地方之窓」というような名義で掲載される。この種の文章は基本的に地方政府や部門がメディアに数万から十数万の「賛助費」を支払うため、業界内では俗に软文と言われる。

メディア学者の展江の研究によると、80年代に出現した软文は当時企業を持ち上げるために苦心して生み出されたもので、広告文学と呼ばれる。「広告的でない広告、報道的でない報道、レポート的ではないレポート」という3つのものがあわさっている。この種の「広告文学」は最初党報に現れたが、ラジオ、テレビ、業界専門媒体、民営媒体もそこに殺到して、软文を扱うようになった。

甘粛日報の記者によれば、甘粛日報も90年代中盤に软文を扱い始めた。当時そのためにわざわざ甘粛日報情報サービスセンターという組織を結成し、総編集室の中にそのセンターを置いた。このセンターの役割は2つに大別され、会員のために定期的に新聞社のもつ内部情報を提供する会員サービス、これは金を払えば誰でもなれた、そしてもうひとつが软文を管理することで、掲載する場合は必ず「経済信息」というマークを付ける必要があったが、掲載面によって料金が違い、地方政府がこれに出稿する場合は多くが全面だった。「软文から得られる収益は記者個人、部門と新聞社に決められた比率に応じて分配される。マーが最も得意にしていたのは大量の似たような経済信息の出稿を集めてくることで、個人としても荒稼ぎをし、さらに情報サービスセンターが置かれた総編集室も新聞社の中で収益が最も良い部門のひとつになった。

数名の甘粛日報の記者によれば、ここ数年の甘粛日報に全面で掲載された地方のトップ、政府部門のイメージ软文は、マーが得たものが最も多く、インセンティブも最も多かった。前述の情報筋によれば、こうした有料でのニュース掲載を派手に進めたことがマーが調査を受ける原因のひとつでもある。

甘粛日報で20年以上働くある老記者は、ここ数年の甘粛日報における武威報道は全てマーが責任を持っていて、良いも悪いも「第三のマー」が決め、そして彼が知る限り世論監督に関するような記事はなかった(訳注:おそらく「中国で本来新聞に期待される世論監督・誘導のための役割を果たさず、金をもらって書く広告記事ばかりを掲載していた」という意味)。

ネット上で調べた限りでは、例えば2016年1年を例に取ると、甘粛日報でマーの署名記事は155本あり、絶対多数がニュースの原稿で、ストレートニュースは少なかった。内容もほとんど武威の党活動、経済、貧困撲滅は企業の発展成績ばかりで、世論喚起に関わるような記事は1本もなかった。「マーの書いた原稿は見てすぐもらった原稿のコピペだと知れるようなものばかりで、社の人間はみなこれが紐付きの软文だと内心ではわかっていた」。

マーの原稿の中で紐付きでないものにも、必ずしも自分で書いたわけでもないものも混じっている。武威のメディア関係者によると甘粛日報に掲載された武威に関する長い記事は(紙面に書かれているような)市委政研室ではなく、武威日報の記者によって書かれていた。「しかもこの原稿のためのインタビューの際、書いたのは武威日報の記者だったとしても書記はよく『先に甘粛日報に載せろ』といい、武威日報には転載させた…そうなると、この記事はマーの仕事ということになってしまう」。

甘粛日報の多くの記者からするとマーの振る舞いは甘粛日報の「伝説」だった。長きに渡って、社の上層部は何度もマーを蘭州の本部に戻そうとしたが、彼はずっと拒否しつづけた。
12年7月、マーは定年を迎えた。新聞社は正式な文書を後悔し、新しい記者を武威に送り込んだ。しかし新任の記者が訪れてもマーはオフィスを明け渡さず、しかしかといって帰るわけにもいかず、とても気まずい形になった。さらに情報筋によると武威市の公式もマーしか支局に受け入れないという文書を出していたという。この事情は甘粛のメディア関係者の間に広まり、甘粛日報の新しい駐在記者は「亡命政府」と呼ばれ、最終的に社は彼を別のオフィスに駐在させることで決着させた。マーは悪事が露呈するまで、そのまま継続して甘粛日報記者の名義のもとに原稿を発し続けた。

「武威支局はマーの独立王国になっていた。本社もそれをまったくコントロールできていなかった。こんな事は社の歴史上他にない」と老記者は語った。ある期間において、支局記者の主な仕事は新聞発行と広告、そして新聞社上層部が訪れた時の対応、連絡だった。「マーはずっと软文と広告の大家だった。彼は新聞社のリソースを自分個人の利益のために使った。彼は当然その利益の一部を本社に還元していた。だからこそ社もこんな長くに渡って彼の行為を容認していたのだ」。

業界歴が長い甘粛日報の関係者によると、ここ数年のメディアの管理は比較的緩かった。編集部門はともかくとして、その他の部門同士で争うように金を稼ぎ、その間で利益相反も起きていた。甘粛日報だけではなく、このような紐付きの記事は甘粛の大多数のメディアに見られた。紙には软文があり、ラジオやテレビにはスポンサードコラムなどの形式で出現した。しかし甘粛支局に駐在する記者は、本社からの派遣であれ現地採用であれ、これまでマーのように長期間ひとつの場所に留まり続けた記者はいない。彼の存在はある種の神話だ、と語った。

現状では、上級組織の要求により、甘粛日報を始めとする党の媒体は昨年すべての软文の掲載を停止している。