鄧小平が中国国内を視察しながら改革開放を訴えた一連を、日本では一般に「南巡講話」と呼ぶ。しかし中国人と話していると、その中国語訳である”南巡讲话”と言うと当然歴史上知っていて当然の事柄なのに「知らない」などと言われることがある(日本でいえば明治維新を知らないというようなものだろうか)。なんでだ?
不思議に思って中国系の検索サイトで検索してみると、”南方谈话(南方談話)”とされる記載が見つかる。いわゆるwikipedia的な位置づけの百度百科にも、その名前のページが作られており、「講話」で検索しても「講話は一般的に談話を指します」との言葉とともに「談話」のページに自動転送される。ちなみに検索回数の目安となる百度指数で過去一年の両単語を比較した結果が下記。同等の水準だが、やはり青色の「談話」のほうが多い。
歴史上の重要な事件に名前が二種類あるというのは、あまり聞いたことがない。しかも講話と談話、ニュアンスは違うのかもしれないが、意味上の違いもあまり感じられないにも関わらず…
と思っていたら、党公式の新聞である人民日報のウェブ版、人民網の鄧小平の業績を讃えるコーナー(というものがあるのだ)に、「“南巡讲话”被改“南方谈话”内幕」即ち「南巡講話が南方談話に改名された内幕」という記事を見つけた。タイトルからして今知りたいことにぴったり答えている…と思いきや、いかにも美辞麗句を連ねたような公式文書をよりわけて読み進めると、この「理由」は公式なものとしてはだいぶしょんぼりであると思えるのだが、いかがだろうか?
人民網に掲載されているということは(真実かどうかは別の問題として)、これは党の正式な見解であると理解してよいのだと思うのだが…。
南巡講話が南方談話に改名された内幕
1992年、中国における改革開放の鍵となる時、鄧小平は改革開放と中華民族の運命に心を痛めていた。88歳という高齢を押して行った南方への視察の中で発表された一連の重要な講話はのちに<武昌、深圳、珠海、上海等などの地における談話の要点>として整理された。
この談話は理論面におけるイノベーションの成果を集めたもので、中国特色社会主義という一大事業の推進力を表している。この談話は最初、「南巡講話」と呼ばれたが、のちに「南方談話」と改称された。しかしどんな名前で呼ばれるにしろ、この談話は中国におけるマルクス主義を表す輝かしい文章である。
しかし、理解しがたいのは、市場経済が中国社会にもたらした変革と急速な発展から目を背け、一貫して市場経済化に否定的な態度をとり続ける人がいることだ。その人たちは市場経済体制の構築の過程において発生する新しい種類の矛盾をあげつらい、市場経済を、ひいては中国特色社会主義を攻撃するのだ。そしてその口実が見つからないときに、その矛先は市場主義改革の根源、すなわち南方談話へのあら捜しになる。
談話の内容に言いがかりをつけることができない彼らは、言葉遊びをすることで批判をしている。曰く「巡」というのは過去に帝王だけに使用を許された字なので「南巡」という表現は鄧小平を皇帝であると言っているに等しく、問題があるだとか、曰くひとりの隠居老人が言ったことを全党員が学ぶべきだというのは党内生活において著しく不正常だとか。結局、何が原因かはともかく、メディアは最後に微調整を加え、「南巡講話」は「南方談話」に名前を変えた。
様々な根拠のない言いがかりはあるが、結局反論にはなっていない。我々が調べた辞典、辞書ではいずれも、「巡」は各地を移動する、行き来して見るという意味だった。定義上、「巡」という行為は誰が行ってもよく、皇帝も使ってよいし、大臣だって使ってよい。「巡按」のような古代の夜回りだってみな「巡」である。引退したとはいえ、世界的な影響力があり、また元は党の核心的なリーダーであった人物の行為を示す言葉として「巡」は不当とは全く言えない。
自ら引退した高齢の老人が特に南方に視察に赴き行ったことは決して権力に恋々としているということではなく、国家の前途と人民への深い思いやりと気遣いである。「鞠躬尽瘁,死而后已(深く謹み、全身全霊で事業にあたり、最後まで力を尽くし、死んでのちようやく終わる)」という成語があるが、一連の南方談話の中から、このひとつの世紀最大の偉人の深い思いを我々は感じ取る事が出来るだろう。
また、南方談話が党全体で学ぶべきものなのかどうかは、鄧小平同志が引退していたかどうかではなく、この談話が学ぶに値するかどうかで決定されるべきである。そしてさらに重要なのは、その談話が正確であるか、そして中国の発展にとって利益があるかだ。南方談話がなければ、我々はまだ苦しい発展の途上において、社会主義と資本主義という二項対立にとらわれ続けていただろう。南方談話は改革に戸惑う党にひとつの方向性を与え、社会主義市場経済体制を開く道筋を与えた。輝かしいマルクス主義に基づくすばらしい談話をえり好みする理由はなんだろう?
ある時党外人士の李鼎铭が党に提出した合理化の意見(訳注:41年に提出され、毛沢東に高く評価された《政府应彻底计划经济,实行精兵简政主义,避免入不敷出、经济紊乱之现象案》を指すと思われる)がまさにその時必要だったように、共和国の建国者のひとりであり、改革開放の総設計者として述べたこのような建設的な意見が重視されないということが許されるだろうか?
党内のどのような立場であれ、南方談話に異論がある人であれ、党の運命、中国特色社会主義の運命、中国現代化の運命、中国特色社会主義の成功に関心がある人であれば、我々はみな彼に感謝しなければならない。そして、このような意見を学習しなければならない。